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願いを聞こう みんなの法話

提供: Book


願いを聞こう
本願寺新報2006(平成18)年3月1日号掲載
布教使 釈迦 裕史(しゃか ひろふみ)
眠るように目をとじて
お別れを言いたいといっている、と自宅の病床で母に付き添っていた妻が、私を呼びに来ました。
普通ではない気配を、妻は感じたのです。

枕辺に行くと、母は手を差し出しました。
母と私と妻は手を重ねました。

「私はもうすぐお浄土にいく。
ほんとうにお世話になってありがとう」

母の目からは、ひとすじの涙が流れていました。

私と妻は、目を真っ赤にしながら母を見つめていました。

「私は幸せだった。
この村に生まれて、ずっとご門徒のひとに育てられてきた。
みんなにお礼がいいたい」

そして母は、念珠が欲しいといいました。
母が愛用していた念珠を手渡すと、数回お念仏を称え、眠るように目を閉じました。

私たちとの会話は、それが最後でした。

私はそのとき実感していました。
母はみ仏に抱(いだ)かれて、その喚(よ)びかけに応えている姿であることを。
はからいを捨て、すべてをおまかせしている姿でもありました。

今、その亡き母をしのぶとき、そこには「かけがいのない」母のいのちに触れることができます。
取り替えることのできないいのちがそこにはあります。
他の人では代わりのきかないいのちでもあります。

あの時あんな表情をしていた、あの時はこんなしぐさをしていた、というような思い出が、あざやかによみがえってきます。
いのちの大切な意味は、その「かけがえのなさ」にあります。

抱き上げる私が抱かれる私
しかし、冷静に考えてみますと、その「かけがえのなさ」「そのものだけ」に執着する心は、裏をかえせば、「自分の心だけ」を大事にすることにもなります。
自己中心の生き方にとどまっているともいえます。
そこから、自分を生かしている大きな「普遍的ないのち」へとめざめていくことに、宗教の大切な意味があります。

月刊誌「ないおん」を主宰している、私の友人である丁野恵鏡(ようのえきょう)氏が、その「編集だより」で、やはり自分の母を亡くした話を書いています。

「さかのぼれば、母に手を引かれて歩いた幼き日もありました。
その母が老いて目が不自由になリ、数年前から私が母の手を引いて歩きました。
しかし昨年からそれさえもできなくなり、母を抱いてはベッドから車いすへの生活が続いています」という状況が説明された後の記述が、私の心をゆさぶりました。

「母を抱き上げる私が、そのまま母に抱かれる私と気づかされます」

理屈ばかりの現代では、「抱き上げているのは私」であり、「抱かれているのは、実は私」であることに気づきません。

謙虚な心を取り戻そう
自己中心の生き方だ当たり前になっていて、「生かされている」ことに気づく、謙虚な心を失ってしまっているのです。

願われて生きる・・・。

「願い」は私の勝手な願いではありません。
「願い」はみ仏の願いです。

常に見守りながら、私がその愚かな自分に気づくことを、絶えず願ってくださっているのです。

浅田正作さんという方の、すばらしい詩に出会いました。

<pclass="cap2">願いを聞こう
願われて願われて
願われて生まれてきた
願われて育てられてきた
その願いを聞こう
(『念仏詩集 骨道を行く』法蔵館刊)

「願われているもの」はなにか。
人間として生まれてきた私にとって、何が願われているのか。

もはや謙虚さを失ってしまった私には、それさえもわからなくなってしまっています。

自分さえよければいいという自己本意の私。
迷いや苦しみがあれば、占(うらな)いや祈祷(きとう)にごまかしの世界を求め、真実の道理を直視しようとしない私。

「その願いを聞こう」というのは、その失った謙虚さを取り戻そうという、浅田さんの切なる思いなのです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/