願いの中で生かされる みんなの法話
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願いの中で生かされる
本願寺新報2004(平成16)年7月1日号掲載
教学伝道センター研究員 北島 隆晃(きたじま たかあき)
頭で理解しようとする
私は、ご本山で聖典編纂(へんさん)の仕事に携わっていることから、たくさんのお聖教(しょうぎょう)にふれる毎日を送らせていただいています。
ところが、仕事でお聖教を見ることに慣れると、ついつい、その内容を頭で理解し、わかったような気になってしまうところがあるように思います。
お聖教が一体何を伝えようとしているのか、いのちの言葉として受け取ることを忘れてしまう気がして反省をさせられます。
ところで、私は二年前に父をがんで亡くしました。
病気がわかったのは亡くなる五カ月前で、その時にはすでにどうすることもできない状態でした。
父にもそのことは伝えられ、最後の五カ月は家族みんなで病気のこと、死ということ、いのちについてなどを話し合い、考える、本当に貴重な時間をいただいたように思います。
父は言いました。
「自分が死んでいく姿を孫たちに見せるんだ」
父には孫(私からはめい)が二人いて、小学校二年生と幼稚園の年中組でした。
その子たちに死というものをその年なりにでも考えてほしい、という思いでした。
五カ月の間に何度か病院に入院する期間がありましたが、その間、めいたちは学校・幼稚園から帰ると夕方に病院にお見舞いに来てくれました。
夕方というと、子どもにとっては楽しいテレビを放送している時間です。
それでも文句を言わず、父に宛てて一生懸命書いたお手紙を持って、病院に来てくれました。
その姿を見て私は、父の思いがめいたちに伝わっているんだ、よく来てくれたね、ありがとうね、とうれしく思ったものです。
父の思いがめいたちに
父は私にこんなことを言ったことがありました。
「〈弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益にあづけしめたまふなり〉この言葉はありがたいねぇ」
『歎異抄』の有名なこの言葉を「ありがたいねぇ」と言った、そのありがたいという思いが私にはわかりませんでした。
死を目の前にした父が、おそらく不安もあり、死を怖いと思い、そして「ありがたいねぇ」と言った思いが、私にはわからなかったのです。
『歎異抄』の言葉はよく知っているし、頭では理解しています。
でも、心で受け取ろうとしていないから、不安も怖さも、そしてありがたさも私にはわからなかったのです。
お念仏に出遇(あ)いながら、やはり死を目の前には感じていない、死をきちんと見つめていない、だからこそ「ありがたいねぇ」という思いがわからなかったのではないでしょうか。
父はその私に、お念仏って頭で考えるものじゃないぞ、私をほっておけない阿弥陀さまがここにいらっしゃるんだぞ、お念仏をしっかりと受けとめてくれよ、今を逃すんじゃないぞ、と必死に、いのちをかけて語りかけてくれたのです。
自分の為と気付かされ
そうすると、「自分が死んでいく姿を孫たちに見せるんだ」という言葉も、それは「お前に見せるんだ」という言葉だったのではないだろうか、と思えるのです。
「死というものをその年なりにでも考えてほしい」というのも、「お前に今考えてほしいんだ」という気持ちだったのではないだろうか、と。
しかも、父の思いがめいたちに伝わっているんだ、とうれしく思い、めいたちにありがとうと思っていた私ですが、それは私の傲慢(ごうまん)であって、父の思いやお念仏との出遇いに目を向けようとせず、心で受けとめようとしない私に、父やめいが、願いが届いている姿、思いを受けとめている姿を示して、気付かせてくれていたのではないでしょうか。
お念仏に出遇いながら、頭で理解してわかったような気になっている私に、今も父は「しっかりと受けとめてくれよ」「死ということを、いのちというものをしっかりと見つめてくれよ」と呼びかけてくれていることを感じながら、今日もナンマンダブと申す一日を生かさせていただいています。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |