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除夜の鐘のご法縁 みんなの法話

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除夜の鐘のご法縁
本願寺新報2006(平成18)年12月20日号掲載布教使 守 快信(もり かいしん)百八を数え順番を待つ先日、電車の中でこんな会話が聞こえてきました。
「もう師走(しわす)ですな」「ほんとになあ。
ついこの前お正月を祝ったとおもたら、もう年の瀬ですわ。
一年がほんとにはやいですな。
年は取りとうないですな...」</p>そういえば、もう今年もあと少し、忙しい忙しいといっている間に、気づいてみたら一年が過ぎていました。
</p>まもなく全国のお寺で「除夜(じょや)の鐘」が撞(つ)かれる音が聞かれます。
毎年十二月になると、「一年のしめくくりは大晦日(おおみそか)やで。
除夜の鐘を撞いて、新しい気持ちで新年を迎えるんや。
ご恩ご恩やな」と、子どもの頃から聞かされてきました。
</p>本堂でおつとめをして、百八を数えるための小豆や小石をお盆の上にのせ、焚(た)き火と善哉(ぜんざい)で寒さをしのぎ、楽しみに撞き順を待ったのを思い出します。
</p>「除夜の鐘」の由来はさまざまですが、百八の煩悩(苦しみの元)が一夜で除かれるところからこのように呼ばれるようになったとか。
一年の罪や災いが一夜で除かれ、新年を清らかな真っ白な心で臨みたいという人々の気持ちの表れでしょうか。
</p>この一年を降り返ってみると、いじめや自殺をはじめとする本当に残念な事件や事故が多かったことに気づかされます。
"こんなことも除夜の鐘を撞いて無くなるのかな。
無くなってくれればいいな"と考えたくなります。
でも、そう都合よくはいきません。
</p>報恩講でのこんなお話わたしの住んでいる地方では、各お寺と同様に、ご門徒の各家で、毎年報恩講がおつとめになります。
どの家庭でも「正信偈」の「きみょう むりょう じゅにょらい」の声が今も聞こえてきます。
</p>ある時、こんな話をしたことがあります。
</p>「仏さまを拝むとき、どんな気持ちで拝めばいいんですか」</p>「そうですね"ありがとうございます"とお礼の気持ちで拝まれるといいですよ」</p>「でも なかなかそんな気持ちにならないんですね」</p>「そうですよね。
多くの方が、節分の時のように"鬼は外、福は内"で自分の都合のいいことだけ近くに、都合の悪いことは避けて遠ざけようとしてしまいます。
</p>そして、嫌な事故や災難、病気や死などは、避けられるようにと仏さまなどにお願いします。
</p>そして、災難の原因は、自分の外にあると責任転嫁するんですよね。
いじめや虐待もこんなところに一因があるともいわれていますね...。
</p>親鸞聖人の先生の法然聖人のお言葉に"祈りによって病気がなおったり、命が延びるようなことがあるなら、どうして目の前に、病気になり死んでいく人があるのか"と、祈りによる除病や延命を否定されています」</p>「そうなんですか。
仏さまは、災難を避けたり、お願いをするために拝むものだと思いこんでいました。
自分の都合で仏さまにお願いをし、ご利益(りやく)を期待して、欲の仏を拝んでいたことになるんですね」</p>「そうなんですよ。
でも仏さまは、こんなわたしに"勝手な自分であることに気づいてくれよ"といつもよびかけていてくださっているんですね。
このことに今気づかせていただいたことは、本当にすばらしいことなんですよ。
これからは、"仏さまのお考えを聞かせていただきます"との心持ちでお念仏していただいたらいかがでしょうか」</p>災難も一つ一つのご縁宗祖親鸞聖人のお伝えいただいたお念仏の教え・浄土真宗は、わたしの都合で、仏さまにお願いする教えではなかったのです。
また、災難が起こらなくしたり、避ける教えでもありません。
聖人の生き方にもいただくことができますように、災難が起こっても、それに真向きとなることをお示しくださる教えです。
そして、仏さまのものさしをいただいて、一つ一つをご縁といただきつつ、越えさせていただく教えだったのです。
ご門徒とのお話をご縁として、改めて気づかせていただいたことです。
</p>今年の除夜の鐘、何が起こっても安心して生き抜けるご法縁となることでしょう。
"ゴーンゴーン(ご恩ご恩)"


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/