阿弥陀さまのおこころ みんなの法話
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阿弥陀さまのおこころ
本願寺新報2007(平成19)年5月10日号掲載
千葉・成田布教所(純心寺) 曽我 弘章(そが こうしょう)
気にかかる一本の朝顔
昨年の夏のことです。
アサガオの苗を八本買ってきて、日当たりの良い庭先に植えました。
花の咲く日を楽しみに、朝夕欠かさず如 雨露(じょうろ)で水をそそぎかけました。
陽光に包まれ、やがて青紫の花が咲き始めました。
ところが、八本とも同じように育てたのに、一本のアサガオだけが花をつけないのです。
たくさんの花が咲いている七本のアサガオよりも、葉ばかり茂っている一本のアサガオが私にはとても気になりました。
遅れること二週間、夕方五時頃のことです。
白い美しい花が一輪咲いているではありませんか。
その一本はユウガオだったのです。
購入先のお店の人も、買って育てた私も、アサガオだと思い込んでいたのです。
当然ながら、ユウガオの苗には、ユウガオの花しかつきません。
静かに咲いているユウガオの花を見つめながら、私は人間の迷いの深さと阿弥陀さまのおこころを思っていました。
私たちは、自分の感情や行為は自分の意志でコントロールできるつもりでいますが、実は縁によってどのような行いをするかわからない存在です。
時にはやさしい心で善い思いや行いができたと明るい気持ちになっても、自己中心的な欲望や嫉妬(しっと)、疑いなどが縁となって、逆に感情的になったり自己嫌悪に陥ったりすることがたびたびあります。
しかし、阿弥陀さまは、私たちが深く重くぬぐえない罪を抱えていようと、次々に起こってくる煩悩の炎によってどのような姿になろうと、「私にはそのようなあなたが一番心配です。
苦悩に沈んでいくあなたをどうしても救いたいのです」という願いをたてられ、「もしこの願いが実現できなければ私は仏には成りません」と誓われました。
私たち(子)の幸せと阿弥陀さま(親)の幸せはひとつであるとおっしゃるのです。
その阿弥陀さまの願いを聞き、阿弥陀さまのみ名を称えたいという思いが起こったとき、私たちは阿弥陀さまの胸に摂(おさ)め取られている喜びに出遇(あ)うのです。
そのままの私が救われ
阿弥陀さまのお育てをいただくと、私の本性が知らされます。
最近、私は自分のこれまでの人生が自己中心の性格(本性)からまわりの人を振りまわし、どれほど迷惑をかけたことだろうかと思うとため息が出ます。
思ってはいけないことを思い、言ってはいけないことを言ってきました。
悲しいけれど、これからもそうでしょう。
しかし、阿弥陀さまはこのような私でも決して見捨てられないのです。
救われるためにはもっと善い行いをしなければいけないのではないか、過去に悪い行いがあってはその罪のためにもう救われないのではないかと心配する私に、阿弥陀さまは「大丈夫だよ、私は本当のあなたを知っているから」とおっしゃるのです。
「そのままのあなたを、どうしてもたすけたい」と願ってくださるのです。
なぜならば「何の力もない、苦悩に沈む衆生を救いたい」という思いひとつで本願を起こされ、成就されたからです。
阿弥陀さまのひかりに照らし出された私の姿は、まさに恥ずかしい、悲しい、愚かな私です。
にもかかわらず、そんな私を阿弥陀さまだけは必ずお救いくださるという世界が、私は素直にうれしいのです。
愚かで孤独で危なっかしい私ですが、阿弥陀さまは「あなたが私の本願のはたらき場所です」とおっしゃるからです。
いつでもどこでも私に付き添ってくださるからです。
願いの中で新たな人生
阿弥陀さまのお誓いは、深く重い罪悪をもち、燃え上がる煩悩の炎を抱えて生きる私たちを救うために起こされた願いです。
その絶対に見捨てはしないという願いのおかげで、私はやっと人間として生まれたことに感謝できるようになりました。
私たちの幸せを願いはたらき続けてくださる阿弥陀さまの「無量のいのち」に出遇えたおかげで、私は「今」という時間がこの上もなく尊くなりました。
阿弥陀さまにお遇いできたときから、私たちは新たな人生を歩ませていただきます。
そんな阿弥陀さまのおこころを、そっと咲いたユウガオの花を見つめながら思いました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |