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遺言 みんなの法話

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遺言
本願寺新報2003(平成15)年10月1日号掲載教学伝道研究センター研究員 原田 宗司(はらだ しゅうじ)おまえは龍大に行け今年の二月末、父と一緒にインド・ネパールに行ってまいりました。
父と旅行するのは何年ぶりでしょうか。
また二人で寝起きをともにするのは、おそらく初めてのことではなかったかと思います。
</p>行程も終盤にさしかかったころ、一路ネパールへ向かいました。
ネパールではパタンのダルバール広場や〝目玉寺院〟として知られるスワヤンブナートなど、各地を観光してまわったあと、パシュパティナートというヒンドゥー教の聖地に着きました。
</p>ここにはバグマティ川というガンジス河の支流がながれ、火葬場として有名なところです。
川の岸辺にはいくつかの火葬台が並んであり、その後ろには臨終をむかえる人のための小さな建物も見えます。
</p>その日も上流の火葬台で火葬が行われていました。
目の前に立ちのぼる白い煙を追っていくと、川向かいの高台からは、若いカップルがその光景をじっと眺めています。
そのコントラストが、何とも印象に残った旅行でありました。
</p>それから半年余りが過ぎた、つい先日、前住職の祖父が往生の素懐をとげました。
九十三年の生涯でした。
</p>祖父は明治の末に、お寺の三男として生まれました。
長男ではありませんでしたので、お寺を継ぐつもりはなかったといいますが、三十数年にわたり住職としての責務を果たし、今から二十年ほど前にその立場を父に譲りました。
</p>もう何年も前になりますが、祖父から得度習礼(しゅらい)のときの話を聞いたことがあります。
祖父が得度したのはちょうど満州事変のころで、当時の習礼の様子といえば、習礼所の近くにあった陸軍の施設に、毎日のように奉仕に出かけたことだと、懐かしそうに話をする祖父の姿が思い出されます。
</p>大戦を目前に控えたきな臭い時代に僧侶となった祖父ですから、もちろん体系的に教学を学んだことはありません。
またお寺のことで精いっぱいだったでしょうから、そんな余裕もなかったことでしょう。
</p>ですから子どもの父に向かって、つねづね「お前は龍大(龍谷大学)に行け」と言っていたと、火葬場の待合室で父が語ってくれました。
</p>病床で記す一冊の手帳還骨(かんこつ)勤行のあと、妹が病床で見つけた祖父の手帳を見せてくれました。
</p>ページをめくると、そこには旧知の名前や自分の住所、それから足し算や引き算など、思いつくままにいろんなことが記してあります。
</p>リハビリのためか、ぼけ防止のためか、何のためにこれを書いたのかはわかりません。
また衰弱しきった体で書いていますから、読めるような文字はわずかしかありません。
</p>そんな中、ふとあるページに目がくぎ付けになりました。
</p>本願を信じ</p>念仏を申さば</p>仏に成る</p>(註釈版聖典839頁)</p>まさかと思いました。
</p>私の見てきた祖父は頑固で無口な人でしたし、元気なころの趣味といえば盆栽か相撲の観戦くらいしか知りません。
ましてや、ご法義の話など一度も聞いたことはありませんでした。
</p>そんな祖父が、何のはからいもなく、こころに浮かんだままに『歎異抄』のお言葉を書き付けていたとは。
父ともども驚きと嬉しさに身震いし、涙がとまりませんでした。
</p>お育てをありがとう祖父と異なり、時代にも環境にもめぐまれた私は、京都に出て教学を学ぶご縁をいただきました。
そして現在では、ご本山で教学に携わる仕事をしております。
</p>環境のおかげで、祖父に比べれば学問の知識もあることでしょう。
しかし、知識があればかえって見えなくなるものがある。
そんな私に、決してお聖教の本意を忘れるなよと、祖父はそう諭してくれているように思います。
</p>たった一言ですが、本当にこの上ない遺言をいただきました。
</p>お育てありがとうね、おじいちゃん。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/