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逆さめがね みんなの法話

提供: Book


逆さめがね
本願寺新報2005(平成17)年1月1日号掲載
勧 学  霊山 勝海(よしやま しょうかい)
我々の常識は〝まよい〟

十九世紀のドイツにヘルムホルツという生理学者がいました。
人の眼はカメラの構造と類似しているから、天地・左右が逆転した映像が見えるはずなのに、天は上に大地は下に見えるのはなぜか、視神経から大脳への伝達の回路を研究した人のように習いました。

彼は網膜に逆(さか)さまに写っている映像を視神経から脳に伝達する回路が正常な映像に修正したというのです。
しかし私は、脳への伝達経路で「錯覚」させているのだと思うのです。

仏教では「まよい」と「さとり」といいます。
私たちの一般的あり方をまよいといい、まよいから目覚めた状態をさとりといいます。
私たちの常識的な世界観や人生観をまよいとよびます。
ここでいうまよいとは錯覚のことです。
学校を出て働いて定年になったら旅行して空いた時間には趣味の絵を描いて...というのは、しょせん水に描いた絵のようなものでしかないと仏教は教えます。

和泉式部の歌「夢の世にあだにはかなき身を知れと教へてかへる子は知識なり」の「夢の世に」は、この現実社会を錯覚と捉えている人生観です。
みんな「逆さめがね」で世を見ているのです。

知識だけの〝自分の死〟
人はみな四種の逆さめがねをかけているといいます。
一つは死ぬものを死なないものと見る逆さめがねです。

誰とて永遠に生きるとは思っていません。
知り合いの若者が亡くなっても病気には勝てないと納得し、働き盛りの夫を喪(うしな)った人を見ても災害の前にはいかんともしがたいとあきらめます。

この段階では人生無常・老少不定(ろうしょうふじょう)の理(ことわり)がよくわかっているように思えるのですが、自分の死期を告知されて「生まれたものはみな死ぬ」と平然としていられる人はいません。

生まれた瞬間から明日は保証されないいのちをかかえ、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨となれる身であることは百も承知していたのでしたが、それは知識だけで人生観にはなっていなかったのです。
現実が、今までの見方が逆さめがねの世界であったことを否応なく教えてくれるのです。

二つは、今は苦しくてもやがて幸せな未来がくるという逆さめがねです。
メーテルリンクの「青い鳥」は、二人の子どもが幸せの青い鳥を探して多くの国々を巡りますが、結局手に入れることができずとぼとぼ家に帰ります。
すると青い鳥がわが家にいたのでした。
大喜びするのですが、ふとした油断で窓から青い鳥は飛び去りました、という結末です。

幸福は手に届きそうな所にありながら、決して捉えることができないものです。
にもかかわらず幸せな未来を夢見ているのです。
これも夢ですから覚める時がきます。
逆さめがねで見ていたことを思い知るのです。

三つは、自分さえよければという逆さめがねです。
このめがねをはずしますと世界中の人が幸せにならない限り私の幸福はない様子が見えるのです。

四つは、煩悩の姿を当然であるとする逆さめがねです。
朝目がさめて夜寝るまで、いえ、寝ても夢のなかまで煩悩を起こしながら、それを人間の当然の姿と見るのです。

逆さまだと気付いた姿
これら四つのめがねをはずすことができれば申し分ないのですが、とても私たちには望めそうにもないことを先人が体験証明してくれました。
それならどうしようもないと開き直るのでなく、そのどうしようもないことを歎く心、言いかえれば逆さめがねをはずせなくても、私が見ている世界は逆さめがねの世界だと気付くのは正しいものの見方ではないかと教えるのです。

逆さまの世界を正しいと見るのは錯覚ですが、逆さまの世界を逆さまに見ていると気付くのは錯覚ではなく覚めた見方です。
数字ではマイナスとマイナスをかけるとプラスになります。
逆さめがねをかけている自分を、逆さめがねをかけて世界を見ていると気付くのはプラスなのです。

親鸞聖人が自らを「煩悩具足の凡夫」といわれたのは、逆さめがねの自分でありながらそれをはずすこともできないと歎かれた言葉で、それは仏教の正見、正しいものの見方だと思います。
お念仏は、この逆さめがねでしかものを見ることができないと気付いた姿勢から申されるのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/