逃げる私を追いかけて みんなの法話
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逃げる私を追いかけて
本願寺新報2008(平成20)年5月20日号掲載
布教使 箱田 義信(はこだ ぎしん)
親なんて・・・いない方が
「親の心子知らず」「親孝行したい時には親はなし」などといわれますが、実際、子どもにとって親というのは、普段何事もない時は有り難い存在というよりも、少々うっとうしいという思いのほうが強いのではないでしょうか。
私自身も子どもの頃から、親というのはうるさくて面倒な存在だと思っていました。
ですから、大学へ進学するため、広島県福山の親元から離れて京都で生活するようになった時は、不安よりも喜びの方がはるかに大きかったのです。
そんな大学生活ですから、順調な日々が続きますと、「親なんていない方がせいせいするわ」ぐらいにしか思っていませんでした。
仕方なしに実家へ電話
ところが、調子良くいっていると思い込んでいる時ほど落とし穴があるもので、ある時、急に高熱が出てフラフラになってしまいました。
なんとか近くの病院までたどり着き診察を受けたのですが、結果は扁桃腺(へんとうせん)がひどく腫(は)れているとのことでした。
当時私は、健康保険証のコピーしか京都に持ってきていませんでした。
ところが病院ではコピーではなく原本が必要だといわれたので、したくはなかったのですが、実家に電話をしました。
すると、すぐに母が出ました。
保険証を送ってくれと言ったところ、受話器の向こうから「どうしたんか?」とすぐに聞き返してきました。
私は「扁桃腺(へんとうせん)が腫(は)れて熱が出たから病院でみてもらったんだ」と言ってすぐに電話を切りました。
それからフラフラしながらも何とかアパートに帰り、ただただ熱にうなされながら横になっていました。
数時間が経過した時でしょうか。
来客を告げるチャイムが鳴るのです。
「こんな時に一体誰だ!」と思い、フラフラしながら玄関のドアを開けると...よく見たことのある顔がありました。
さっき電話に出た母が、そこに立っていたのです。
私を見るなり「あんた、大丈夫?」と聞いてきました。
それに対して私は「何しに来たんか?」と言ってしまいました。
何をしに来たのかは一目瞭然です。
私の病気が心配で心配で、電話を切ったあと、すぐに福山のお寺から駆けつけてくれたのです。
しかし当の私はそのことに気をかけることもなく、無神経な言葉を発したのでした。
今あらためて考えてみても、大変ひどいことを言ってしまったのですが、そのとき母親は怒って帰ることもなく、何も言わずにただ私の看病をしてくれました。
「他力」表す「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
「ものの逃ぐるを追はへとるなり」
親鸞聖人は「摂(おさ)め取って捨てない」(摂取不捨(せっしゅふしゃ)
)という阿弥陀さまのはたらきを、このように示されました。
おさめとって決して捨てることはないという阿弥陀さまのお慈悲のはたらきは、逃げてばかりいるこの私を追いかけて、抱きとってくださるのだとおっしゃるのです。
「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」とは、そんな阿弥陀さまの「他力」のはたらきを示すお言葉なのです。
私たちはいつも自分では気づかぬうちに「親」から逃げようとしています。
しかし、だからといって親は放っておくかといえば、そうではありません。
放っておけばどうなってしまうかわからないこの私のために、私の思いや、はからいを超えて、逃げる私をどこまでも追いかけてつかまえて、救いとってくれるのでした。
そんな親の「はたらき」を、一人暮らしで病気になり、どうにもならない状況に陥りそうになった時に、私の思い、はからいに関係なく、すぐに私の元に来て看病してくれた母の姿を通じて、どうにか気づかせていただきました。
しかし、そんな出来事も、調子が良くなるとついつい忘れてしまいます。
<pclass="cap3">十方微塵(じっぽうみじん)世界の念仏の衆生をみそなはし
<pclass="cap3">摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる
(註釈版聖典571ページ)
「浄土和讃」に聖人が示されたこの一首を今、心よりいただき、味わうものです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |