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蓮の花 みんなの法話

提供: Book


蓮の花
本願寺新報2006(平成18)年7月20日号掲載
布教使 足利 一之(あしかが もとゆき)
ドロの中に根をはって

私のお寺では、四十年ほど前から幼児園を運営しています。
近年の少子化などの影響を受け、園児数が大幅に減りながらも、お寺の壮年会や婦人会などと同様に、教化活動の一環として運営を続けています。

 その幼児園では、毎週、本堂に入り「月曜礼拝」を行っています。
大きな蓮の花の上に立つ阿弥陀さまの前に座って手を合わせている子どもたちの姿は、まるで小さな蓮のつぼみが並んでいるかのように見えます。

蓮の花といえば、『正信偈』に「是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)」とあります。
『しんじんのうた』(意訳)には「ほとけの誓い信ずれば、いとおろかなるものとても、すぐれし人とほめたまい、白蓮華(びゃくれんげ)とぞたたえます」と訳されています。

阿弥陀さまの誓願を信じるものを、白い蓮華のようだと褒(ほ)めたたえるということですが、数ある花の中でなぜ蓮華の花にたとえられるのでしょうか。

蓮の花は、泥の中に根を張って栄養を吸収し、茎を水面へと伸ばして、つぼみをふくらませ、日の光をいっぱいに浴びて、やがてきれいな花を咲かせます。
その蓮の育つすがたと、悩み苦しみの絶えない世界に生きる人間が阿弥陀さまに救われて仏のさとりを開くすがたとを重ねてたとえられたのでしょう。

自己中心的生き方しか
私たちが生きる人間の世界は、蓮の花でたとえれば、根を張る泥の中です。
泥の中は、光の届かない暗闇の世界ですから、周りにいる他人の姿どころか、自分の姿さえ確かめることができません。

それで、私たちは自分に何かつらいことや苦しいことがあると、「なぜ自分だけがこんな目に遭(あ)うのだろう」と嘆いてしまったり、自分以外の人はまるで何の悩み苦しみも無い幸せな人生を歩んでいるかのように思えてしまいます。
他人をうらやんだり、ねたんだりしてしまい、またあるときは、人生を投げ出してしまいたくなるというような、自己中心的で未来に明るい希望を持てない生き方をしてしまっています。

しかし、仏教では、私ばかりではなく周りの人も、生きているものはすべて「老」(老いていくこと)、「病」(病に臥(ふ)せること)、そして「死」(死んでゆかねばならない)という「避けられない苦」を背負って生きていると教えます。

そのことに気付かせてくださる仏さまが阿弥陀さまです。
阿弥陀さまは「あなた一人が苦しいのではありませんよ」と、同じ苦しみの中を生きる仲間がいることを明らかにし、どんな人生のただ中にあろうとも「分け隔てせずに必ず救う」と、私の人生を仏のさとりの世界へ転じようとはたらいてくださっているのです。

それが、私たちが称えさせていただいている「南無阿弥陀仏」に込められた阿弥陀さまの「誓願」であり「智慧の光のはたらき」なのです。

苦難の人生仲間と共に
「正信偈」の言葉を今一度味わわせていただきますと、自己中心的で未来に希望を持てない生き方をしていた愚かな私が、阿弥陀さまの智慧の光に照らされ「南無阿弥陀仏」に込められた誓願を聞き開くことにより、自分以外の人もまた同じ苦しみの世界を生きる仲間であり、そして共に救われゆく御同朋であると気付かされます。

そのすがたを「よく自分自身の愚かな生き様に目覚めることができましたね。
それがそのまま阿弥陀さまに救われて仏に成る人生へと転ぜられた証しなのです。
そんなあなたを『白い蓮』と仏さまは褒め称(たた)えられます」と「正信偈」に示されるのです。

そこから導き出されるのは、泥の中を一人ぼっちで孤独に生きる人生ではなく、同じ苦しみを背負う朋(とも)(なかま)と共感し支え合って人生を生き抜き、やがて仏のさとりという大輪の花を咲かせていただく人生です。

私がこの仏のさとりの花を咲かせるためには、苦難の絶えない人生を仲間と共に生きぬくことも、私を明らかに照らし続けてくださる阿弥陀さまのはたらきも、どちらもなくてはならないことを、泥に根を張り花開く蓮にたとえてくださったと私は味わわせていただいています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/