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花☆花☆花 みんなの法話

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花☆花☆花
本願寺新報2002(平成14)年1月20日号掲載青原 令知(あおはら のりさと)広島仏教学院講師花の不思議え.秋元 裕美子ちょっと季節はずれですが、お花って不思議だと思いませんか。
</p>まず、花が嫌いだという人はあまりいないように思います。
花束を贈られれば誰もが喜びますし、野山に咲く花だけでなく、町にも庭にも家の中にも、あるいは洋服の柄にまで、花があふれています。
また結婚式や葬式など、さまざまな場面で花はつきものです。
私たちは花に囲まれて生活しているといってもいいでしょう。
それほどみんな花が好きなのです。
これは日本に限らず、世界中の人たちに共通することではないかと思います。
花は如来の慈悲の象徴といわれます。
あらゆる人の心を分け隔てなく和(なご)ませる花は、まさに慈悲の心に相応(ふさわ)しいといえましょう。
</p>けれども、みんなが花を好きだからといって、たとえば恋人が好きで好きで恋い焦がれるようなのとは違うようです。
あったらきれいで楽しいけど、それを渇望して、そばに花がなければ死んでしまうということはないでしょう。
</p>確かに花屋さんとか花が趣味の人は、花が生活の一部になっているでしょうが、だからといって、花が枯れたときに身内を亡くしたように嘆き悲しむ人はあまりいないのではないでしょうか。
花の葬式をしたという話は聞いたことがありません。
そう、私たちは花が枯れることをよく知っていて、それを当たり前に受け入れています。
丹精込めて見事に育て上げた大輪の菊の花も、時が経てば枯れます。
枯れたときは、残念だけど仕方がないと、育てた人も納得します。
</p>美しい花を見るのは心が和み、うれしくなる。
だからみんな花が好きだ。
でもそれがしぼんで枯れても、あっさりと受け入れてしまうドライな心も持ちあわせているのです。
それどころか、桜のように花が散るところに美学を持ったりもします。
そこが犬や猫のペットとは違うところです。
動物の死はにわかに受け入れがたいが、花の死は納得できます。
あくまで冷静に受けとめられます。
</p>花の命は短くて仏教では「諸行無常」ということをいいます。
物事は常に移り変わり、ひと時として同じ状態はない。
いま盛んであってもやがて衰えてなくなっていく。
生まれたものはやがて老いて死を迎え、最後は白骨と化していく。
それがこの世の現実です。
だから、今日あるものが明日もあると思って、無常なるものに常なるものを見ていけば、必ず裏切られてしまいます。
そこに悲しみや怒りが生じます。
それが無常を受け入れがたい私たちの迷いの姿です。
</p>人間の何十年にもわたる人生の長さはむしろ長すぎて、日々の刻々の変化に目を向けることは難しいものです。
親戚の子どもに久しぶりに会った人は必ず「大きくなったねぇ」といいます。
でも毎日顔を合わせている家族にとっては、昨日より今日の方が大きくなったとはとても思えません。
その変化がスローペースすぎてよく見えないのです。
</p>その点、花の一生は私たちにその変化を気づかせるにちょうどいいサイクルといえます。
種が芽を出し、枝葉をつけて花を咲かせ、実を結んでやがて枯れていく。
花は諸行無常の現実を端的に示してくれます。
花が諸行無常を無意識のうちに私たちの心に刻みつけてくれているような気がします。
</p>花に接することによって、知らず知らずのうちに無常の現実を学んでいる。
だから私たちは諸行無常を教えられれば、誰しもうなずける。
受け入れがたい無常の現実を受け入れる余地をもっているのです。
それも日常生活の中で、無常を体現する花という見本がいつもそばにあるからではないでしょうか。
と同時に、花があれほど私たちに親しまれるのも、咲くときは咲き、散るときは散る、という無常に逆らわない潔さに共感できるからかも知れません。
永遠に咲き続ける花があったとしたら、きっと見向きもされなくなるでしょう。
</p>花に託された慈悲釈尊が八十歳でまさに亡くなられようとするとき、弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)は悲歎されて「仏であるあなたは死に打ち勝つのはたやすいことなのに、なぜ逝(い)ってしまわれるのか。
もっとこの世に留(とど)まって私たちを導いてほしい」と懇願されます。
</p>しかし釈尊はおっしゃいます。
「諸行無常の理(ことわり)は仏であっても避けることはできない。
私がいつまでもこの世に留まれば、おまえたちは無常の現実を忘れてしまうであろう」と。
そして釈尊最後のお言葉は「諸行は無常である。
怠ってはならない」でありました。
身をもって諸行無常の現実をお示しになったのです。
</p>無常の現実を私たちに示し続けている花の姿は、その釈尊に重なり合って見えます。
如来が花に姿を変えて現れたとさえ感ずることができます。
ちっぽけな花の中にも、大きな大きな仏心があって、私たちを絶えずうながし続けています。
まさに、いつでもどこでも私たちの上にはたらく如来の慈悲そのものです。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/