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自己を見つめる目 みんなの法話

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自己を見つめる目
本願寺新報2004(平成16)年3月20日号掲載載
龍谷大学専任講師 玉木 興慈(たまき こうじ)

」の字は何と読む?


」という字は何と読むのでしょうか? 顔を右に傾けると読むことができます。

「腹を立てず」と読むそうです。

ある散髪屋さんに掛かっている色紙の言葉ですが、いい言葉だなあと思いながら、散髪してもらいました。
頭もさっぱりとして、いい言葉を味わいながらすがすがしい気持ちで家に帰ると、「エラク短く切って!」。

そうかと思うと、横から「行く前と変わらないね!」と声をかけられました。

数分前には「腹を立てない」という言葉に気分よく帰ってきたのに、途端に、腹を立ててしまいました。

仏教では、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)を「三毒の煩悩」といいます。

貪欲とはむさぼり、瞋恚とはいかり、腹を立てること、愚痴とは愚かさを意味します。

私の身近なところで三毒を考えてみます。

現在、私は龍谷大学で研究・教育をさせていただいておりますが、講義をしていると、さまざまな想いを抱きます。
この先生はわかりやすい、物知りな先生だと思われたい気持ちを否定することはできませんし、その私の思いとは逆に、講義に耳を傾けず、おしゃべりをする学生がいると、つい大声で怒ることもしばしばです。
学生の興味をひく講義をしない(できない)自分の力の無さを棚に上げて、講義を聞かないと愚痴をこぼしたりもします。

「諦(あきら)める」ということ
また、家庭での子育てにおいては、赤ん坊は何でも思い通りにしてもらっていいなぁと思うことがあります。

赤ん坊が泣いていると、お腹が空いたのかな? どこか痛いのかな? おむつを替えた方がいいのかな? など、大人はいろいろと心配します。
何でも思い通りになって満足だろうなあと思うのです。

でも、本当にそうなのかなぁ? 実は泣いているのに、してもらいたいことが伝わらず、結局泣き疲れて眠ってしまうこともあるんじゃないかなぁ。
思い通りにいかなくても、怒ったり愚痴をこぼすこともなく、諦めることをよく知っているのではないかなぁと思う時もあります。

「諦める」という言葉は、一般に「断念する」「途中で放棄する」という意味に理解されていますが、本来、仏教では「真理」を意味します。

智慧の眼によって真理を明らかに見ることを「明らめる」「諦める」というのです。

一人では何もできない赤ん坊は、自分の思い通りにいかないことを知っているから、諦めることができるのかも知れません。
けれども、大人になるにつれて、思い通りにならないはずがないという思いあがりの心を持つがために、自分の思い通りにならないと、自分以外の誰かに腹を立てたり愚痴をこぼしたりします。

しかし、万事が思い通りになるはずがありません。
この真理に気付く智慧の眼をもたないために、愚痴をこぼすのでしょう。

大悲の心を真摯に学ぶ
腹を立てる、愚痴をこぼすということを例にしましたが、これは、腹を立てない時もあれば、愚痴をこぼさない時もあるということです。

しかし、親鸞聖人は、「一切凡小(ぼんしょう)、一切時のうちに、貪愛(とんない)の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く」(註釈版聖典235頁)と記しておられます。

「貪愛の心」「瞋憎の心」が常であるということですが、常とは、「折りにふれて時々」ということではなく、「絶え間なくずっと」ということです。

普段は腹も立てないし、愚痴もこぼさない、これが日頃の私で、たまには腹を立てたり愚痴をこぼしたりする、それは相手が悪いんだと思いたい私に対し、この親鸞聖人のお言葉は、たいへん厳しい見方を示すものです。

しかし、このような厳しく自己を見つめる目を通すことによって、「普(あまね)く諸(もろもろ)の貧苦(びんぐ)を済(すく)う」という阿弥陀さまの大悲の心を本当に知ることができるのです。
真摯に阿弥陀さまの大悲の心を学ばせていただきたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/