育てられて親になる みんなの法話
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育てられて親になる
本願寺新報2004(平成16)年10月20日号掲載
布教使 池上 恵龍(いけがみ えりゅう)
今の世相は何を物語る
いま、科学技術は目覚しい発展を遂げ、豊かで便利な社会をつくりました。
ところが、長生きを手放しで喜べないばかりか「ポックリ死ねたらいつでもいい」という声をよく耳にするようになりました。
自殺者は毎年三万数千人を数え、頻発する凶悪犯罪と被害、加害に関わる低年齢化の世相は何を物語っているのでしょう。
快適さや便利さを求めるあまり「邪魔者は消せ」とばかりに都合の悪いものを排除し、あるいは改造を加える営みは、いまや自然環境や動植物にとどまらず人間にまで及んできました。
自然には誕生しえない動植物が造られ、人工的に操作された人間が造られる時代がやって来ようとしているのです。
煩悩を悲しむどころか、競って欲望の拡大を計っている様相です。
阿弥陀さまは「本当に尊いこと」を教え、「本当の幸福の道」を勧め導いてくださいます。
人間中心の考えは、自分さえよければいいという自己中心の考えと同じです。
やがてはお互いがぶつかり合い、破壊と無法を招くことは必至でありましょう。
自分の考えや行いを問うことを棚上げして、まわりを私の都合に合わせて造り替えようとする行為は、加害者もやがては被害者になることを避けることはできません。
こんなはずではなかったと後悔する前に、共に生きる歩みへの方向転換をこそ求めたいものです。
浄土を鏡に生き方問う
すべての生きとし生けるものが心から晴れ晴れとした、くずれ去ることのない本当の幸福の世界が阿弥陀さまの願ったお浄土です。
男女、尊卑優劣の差別なく、一人ひとりの持ち味が輝く世界です。
狭い了見で計る「役立つか否か」といった物差しがくつがえされ、みな一様に尊び、尊敬される世界です。
中国の曇鸞大師は「四海(しかい)のうちみな兄弟」といい、親鸞さまは「一切の有情(うじょう)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)・兄弟」といただかれています。
こうした言葉がきれいごとのスローガンではなく、「いのちの成り立ち」の真実から導き出された教えと了解されるでしょう。
その浄土に方向を定め、浄土を鏡に今の生き方を問うありようを念仏者といいます。
阿弥陀さまの智慧と慈悲の光を身に受けた人生の歩みは、自身の虚仮(こけ)と自己中心性が黒い影となってあらわになります。
私の苦悩と社会の濁りが自ら招いた結果と知らされ「恥ずかしい」という心を産み、悲しみや痛みを伴った歩みへ方向転換がもたらされます。
また影を生む光の存在に「もったいない」「おかげさま」と喜べる如来のはたらきが知らされます。
阿弥陀さまに救われて、阿弥陀さまと同じさとりを開かせていただくのですが、それは言葉を代えれば、親に育てられて凡夫の私が親に仕立てあげられるということです。
また、救われて救い手になることでもあります。
人生の上に念仏申す道
「信心」とは、私に至り届いた如来の真実を依りどころに生きるありようをいいますが、そのことは、この世で「如来と等しい」心になることでもあります。
私や社会の苦悩のすがたを痛み、迷いから救わんとする阿弥陀さまの願いが私の願いともなり、依りどころとなることが、この世にあって浄土への道を生きる念仏者なのでしょう。
そして、そのような「信心」の人を、すばらしい人間という意味で「妙好人(みょうこうにん)」と呼びます。
阿弥陀さまは、私の願う宝物をくださりはしませんが、私を宝物のような人間に育ててくださるのです。
煩悩を抱えながらも〈教え〉を鏡として生きれば、さまざまな場面で私の欲望と教えとの葛藤がもたらされます。
その葛藤は、さらなる自己の影の発見と私を救わんとする如来のはたらきを知らせます。
〈教え〉を生活に反映した、お浄土に向かっての念仏申す歩みは真実に向かった光かがやく道です。
おのずと、苦悩の原因が明らかに自覚されてくる道でもあります。
老・病・死の厳しさが待ち受ける人生も、辛く、厳しいままでありながら同時に、みんなと共に「有り難い」と喜び生きる道でもあります。
この念仏申す道を我が人生の上に、より確かな歩みとして築いてゆきたいものです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |