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空が私を見ている みんなの法話

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空が私を見ている
本願寺新報2003(平成15)年10月10日号掲載
滋賀・真願寺住職 寺前 逸雄(てらさき いつお)
カナダ開教から100年

カナダという国に本願寺派のお寺があることを、ご存じでしょうか? 実は一九〇五(明治三十八)年にはバンクーバーに仏教会が設立され、最初の開教使が本願寺から派遣されているのです。
二〇〇五年には、開教百周年の盛大な行事が催されることでしょう。

もし観光でカナダに行かれたら、スキーや、ロッキー山脈の山歩き、ナイアガラの滝の観光も大いに楽しまれるとともに、日本から移住し苦労されてこられた多くの日系人を中心にして、あの広大な大地にお念仏の声が染み渡ってきた歴史があることも思い出してみて下さい。

かくいう私も、数年間でしたが、開教使としてカナダの地に立っていました。
私が主に駐在していたのは、カナダ西部のロッキー山脈が切れて、プレーリーという大平原地帯が東に向かって始まろうとしている農業地域でした。
農業といっても、日本の感覚でいう農業とは全く趣を異にするものでした。
なにしろ一枚の田んぼにあたる土地が一セクションといって、一マイル四方、つまり一辺が一・六キロの正方形なのです。
日本ならちょっとした町や村がそのまま入るような面積です。
それを何枚もっているかという風に数えるのですから、その規模がわかっていただけるでしょうか?

ジャガイモ、トウモロコシ、キャベツなどが主な作物ですが、何千万円もする巨大なトラクターを使って耕作し、出荷するときはシカゴの商品市場の相場を分析して決めるというように、農家というよりは企業経営者という感覚です。

どこまでも直線の道路
そのような地域に日系カナダ人のご門徒の方が多くいらして、浄土真宗のお寺を護持運営されてきたのです。
私もいろいろな方に大変お世話になり、あるときは玄関に大きな箱一杯のトウモロコシを持ってきていただき、数日間トウモロコシづくしの食事ということもあったことが思い出されます。

私のその地域での主な役目は、広範囲に点在する七つのお寺を順番に回ることでした。
一番遠いお寺までは二百キロ以上ありました。
もっとも、どんな田舎道でも百キロ以上のスピードで走ることが出来ましたから、二時間ちょっとで着くことができたのです。

なにしろカーブがないのです。
日本で最長の直線道路は北海道にある三十キロ弱の区間だそうですが、カナダの大平原地帯では、百キロのスピードで一時間、二時間走ってもハンドルを切ることが全く無い所がいくらでもあります。

もちろん信号などありません。
そういう所を一人で運転していると、だんだん感覚が麻痺してきます。
鮮やかな空の青(空気が乾燥しているので絵の具を流したような群青の空)と、どこまでも続く地平線の間で自分が無くなってしまうような感覚に何度も捕われました。

比較超えた絶対的世界
それは不思議な気持ちでした。
でも、いやな気持ちではありません。
それどころか何ともいえない至福の感覚というのでしょうか、自分というものにこだわる必要が無くなり、そのままこの風景の中に吸い込まれていきたいという感覚。
圧倒的に大きなもの、自分をそこに比べてみることができなくなるほど絶対的な世界。
そういうものを前にするとき、私たちは喜んでそこへ包み込まれていきたいと思うようです。

残念ながら日本では私がカナダで経験したような運転はできないでしょう。
圧倒的な自然の大きさを感じることは難しいでしょう。
しかし、一度じっくりと「空」を見上げてみて下さい。
暇が無いなどといわずに、たまには空と向き合ってみて下さい。
自分が空を見ているんじゃなくて、空が自分を見てくれているような気持ちになってきませんか? そんな時、私は「我にまかせよ、必ず救う」という「南無阿弥陀仏」の大いなるよび声に包まれているわが身を感じるのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/