私のあたまにつのがあった つきあたって折れてわかった
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ある保育研修で、動物園の獣医さんから、鹿の生態(せいたい)について話を聞きました。
「雄(おす)が角(つの)で戦うのは、強い子孫を残すための雌(めす)を得ようとするのです。角の場所は、頭のてっぺんと思っている人が多いのですが。ほら、皆さんのおでこの横を触ってごらんなさい。ちょっと出ているところがあるでしょう。そこです。そう、人間にも、その名残(なごり)は、ちゃんとあるのです。結婚式で、お嫁さんが角かくしってするでしょう。あの場所は正解ですよ」。
参加者が女性ということもあり、獣医さんは、私たちの反応を楽しんでいるようでもありました。しかし、人への進化の過程で、しっぽが無くなり尾骨(びこつ)だけが残っているのですから、この話も納得できることでした。
それにしても、女性の晴れ姿である花嫁衣裳(はなよめいしょう)に「角を隠(かく)すもの」があるというのは、どういうことなのでしょうか。
角かくしは、角を隠しているということなのですから、見方を変えれば「私には角があります」と主張していることになります。普通、物を隠す時には、わからないように、さり気なくするものなのに、この堂々とした隠し方の意味合いは、いったい何なのでしょうか。ひょっとすると「私は、角がある身ですが、それは醜(みにく)く、恥(は)ずかしい姿なので、とりあえず隠させていただきます」ということなのかもしれません。そうだとすれば、子どもたちが「お母さんに大きい角が出てくるよ」というのも、嫁・姑(しゅうとめ)が「角をつき合わせる」というのも、了解できることです。男性については、どうなのでしょう。角のある女性から生まれたのですから、もちろん、あるはずですね。「なーんだ、みんな角をもっていたのか・・・・・・」こう考えると、急に安堵感(あんどかん)を覚えます。
でも、これって、人の本性は、鬼ということなのでしょうか。
もう一度、鹿の話に戻りますが、雄鹿の角は、翌年の春、子どもが生まれる頃には、枯(か)れるように落ちてしまいます。こうして、武器を無くした雄は、肉食獣の餌食(えじき)になりやすいのですが、そのおかげで、母と子は生き延(の)びることができるそうです。
自然の摂理(せつり)とはいえ、雄鹿の堂々とした生き方、潔(いさぎよ)さに、まぶしさを感じます。
さて、私の角はというと・・・・・・。
幻のように姿は見せませんが、実態は、なかなかしぶとく、強じんです。よく、直接対決に出かけては、相手を傷つけたり、自らが怪我(けが)をしたりしています。
でも、時には、そうしたあり方に恥(は)ずかしさを感じ、もっと美しい生き方をしようと心から思ったりもするのです。
そんな時は、自分が急に成長できたようで、身も心も軽やかになり、本当に良い気分です。
しかし、喜んでいるのも束(つか)の間です。今度は、サイのようにがっちりとした角が、私の鼻先にできあがるのです。そして、それは「私は、自分の恥ずかしさに気づけるのだから、まんざらでもない」と誇(ほこ)らし気に輝くのです。
「ぎゃー、何だ、これは―――。何者なの・・・・・・私って!!」
靏見 美智子(つるみ みちこ) 1941年生まれ、神奈川県在住 東京教区西教寺
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。