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私にかけられた願い みんなの法話

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私にかけられた願い
本願寺新報2002(平成14)年8月20日号掲載
滋賀・帰命寺住職 岸井 一元(きしい いちげん)
私の苦悩とひとつ

お釈迦さまが説かれた数多くあるお経の中で、この私の救済が説かれたお経、それが『仏説無量寿経』です。
このお経には、阿弥陀仏の本願が説かれています。

そして、ほかのお経とは違っている点があります。
それは、お釈迦さまがこの世にご出世になられた目的が「阿弥陀仏の本願を説くためである」と、お釈迦さまご自身が述べられている点で、このお経の序分には、そのことが説かれています。

私たちにとって最も大切なことは、この『無量寿経』に説かれる本願のおいわれを聞かせていただくことです。
仏さまの眼には、迷いの世界で苦悩する私たちが映っています。
その迷いの私たちのためにたてられた願い、それが本願です。
けれども、遠い昔に、どこか離れた所から仏さまが私たちを救いたいと本願を発(おこ)されたのだと聞くと、仏さまの救いがわからなくなってしまいます。
仏さまは私の苦悩とひとつになっていて下さる、いつも私と共にあることを聞かせていただくことが大切です。

仏さまをよく親にたとえますが、親の願いは子のためであって、子である私がいなければその願いもないはずです。
私の苦しみは親の苦しみとなり、私の喜びは親の喜びとなる、そんな私と苦悩を共にするのが親であり、仏さまなのです。

仏さまの願いとは
『無量寿経』には、その昔、法蔵菩薩が師の仏である世自在王仏(せじざいおうぶつ)の前で、四十八の願いを発されたとあります。
それは本願の成り立つ因縁を示されたもので、そのことがなければ、私たちは仏さまのお心を知ることが出来ません。
『無量寿経』は、仏さまのお心を言葉をもって、その深い「願い」を示されたのです。
その「願い」とは、

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至(ないし)十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。
ただ五逆と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とをば除く(註釈版聖典18頁)

短いこの一文には大切なことがたくさん含まれています。
要点を申しますと、《どうか本願を信じて念仏し私(仏)の世界へ生まれてもらいたい》という仏さまのお心が述べられてあります。

この仏さまのお救いは、私たちに仏の救いのみ名である名号(みょうごう)を与え、信じさせ、称(とな)えさせて、さとりの世界へ生まれさせるという、仏さまからの一方的なおはたらきです。
この救いのはたらきを「他力本願」と申します。

近年他力本願が他人の力を借りるとか、あてにすることのように誤用する人がいまして、「他力本願では駄目で、自力本願でなければ...」などという人がいますが、正しく「他力」という言葉が理解されていないことに私自身、悲しみを覚えます。
もともと自力本願という言葉は仏教にはありません。
他力とは、あらゆるいのちを念仏一つで救うという燃え立つような阿弥陀さまの本願力をいうのです。

念仏の声を子や孫に
この本願のおはたらきが私にいたり届いた状態を「信心」といいます。
つまり信心は、本願のおいわれを聞くほかに信心はありません。
仏さまのお心がどのようなものかを聞かせてもらうのです。

ですから、本願に誓われたお念仏を申すことは、仏さまのお心にかなうことです。
この私が申すお念仏は、そのまま「必ず救う」という阿弥陀さまのおよび声であったのです。
仏さまのお心はまことに行き届いたもので、仏となる知恵や能力が無くとも、ただ名号の一方的なはたらきによって救おうとされるのです。

先ほども申しましたが、名によって救うということは、名を与えることです。
南無阿弥陀仏は仏さまのお名前であり、そのお名前はそのまま南無阿弥陀仏という仏さまなのです。
名前と体が一つであって別々ではありません。
世の中のものは名前と体は別ですが、阿弥陀さまは一つです。
ですから、仏さまのお徳は、お念仏をよろこぶ人にそなわり、今、この時からすでに大いなるご利益をいただくのです。

この仏さまのお話に関心のない人、また無自覚な生活に満足している間は、宗教の必要を感じていません。
無自覚な生活とは五欲(飲食欲、睡眠欲、色欲、財欲、名欲)を満足させていれば十分だと考え、生死(しょうじ)の迷いに人間としての自覚をもたない生活です。
もし、自覚のないままで一生を終われば、これほど空(むな)しいことはありません。

病人の枕元に薬が置いてあっても、病人がそれを飲まなければ薬が無いのと同じです。
仏教がどれほど立派なみ教えでも、他力本願がどれほどすばらしいみ教えであっても、お聞かせいただかなければわかりません。

私たちはこのすばらしいみ教えにあわせていただいたことを喜び、子や孫にしっかりと伝えてゆきたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/