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私どもが自力と考えていること全体が 他力の中にある

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つい最近ですが、寺の定例聞法会(ていれいもんぽうかい)で清沢満之(きよざわまんし)先生が言われる「有限(ゆうげん)と無限(むげん)」をテーマに学んだことがありました。有限とは自力(じりき)であり、無限とは他力(たりき)だということがよくわからなくて、じっくりと語り合いました。その中で、ある若い門徒(もんと)さんが「道を歩いていたら、ふと電信柱(でんしんばしら)に無限他力を感じて感動した」と言い出しました。電柱といっても、その資源を掘り起こす人がいて、それを加工する人がいて、それを工事する人がいる。つまり、電柱一本にも見えない形で色々な支えがあってこうして成り立っている、それを他力というのではないかという感想でした。そして、この電柱のおかげで、はじめて私たちは家庭で電気を使うことができるのではないかと語っていました。この感想がきっかけで、さまざまな意見が飛び交(か)いました。自分のいのちは両親から生まれたと言いますが、両親が結婚する縁(えん)がなければ生まれないのです。そして父親にも両親がいて、その父親にも両親がいて・・・と考えると、自分のいのちは、はるか宇宙の始まりからのさまざまないのちの営(いとな)みによって成り立っていることが気づかされます。たった一つ縁が欠けても、この自分はここに存在しない、見えない無数のいのちによって、この自分があたえられているのです。有限ないのちは無限によって支えられているのです。そのことを他力というのでしょう。聞法会すらも自分の力で来たのではありません。家族に重病人(じゅうびょうにん)がでたり、途中(とちゅう)で事故に遭(あ)ったりしたら、来ることはできません。語り合いを通して、他力によってはじめてことを成(な)すことができることを感じ合うと同時に、何かとても開放的な気持ちになりました。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は自力とは「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげ」(真宗聖典541頁)むことだとおっしゃられています。つまり、どのような縁を生きているのかを無視して、何でも自分の力で切り開くことができるはずだ、思い通りになるはずだという発想が自力です。しかし、自分の力は限りがあり、有限です。現実は矛盾(むじゅん)だらけで思う通りにならず、状況に苦しみ、傷つけあって生きざるを得ません。他力とは「如来(にょらい)の本願力(ほんがんりき)なり」(真宗聖典193頁)と教えられています。自力に執着(しゅうじゃく)し、愚(おろ)かで深い罪をもって生きている自分がまるごと他力に支えられていることを、本願の教えとなって呼びかけられているのでしょう。もちろん自力を否定することは怠(なま)け者でいいということではありません。また、因縁和合(いんねんわごう)してある自分のいのちの事実は、運命とか絶対的な力によってもたらされたわけでもありません。無数のいのちの営みが、この有限な私にまでなって生きてきたという歴史的事実に目覚めて、どんな自分でも引き受けて自分を尽(つ)くして生きることが願われているのです。私たちが自力と考えていること全体が他力の中にあるのです。もっと言えば他力が生きているのです。“人事を尽くして天命(てんめい)を待つ”あり方が翻(ひるがえ)されて、“天命に安(やす)んじて人事を尽くす”眼(まなこ)が与えられるのでしょう。あらゆることが他力の中にあるとうなずけたなら、そこに自力の執心(しゅうしん)を離れた無条件のいのちの喜びが回復されてくるのではないでしょうか。


本多 雅人(ほんだ まさと) 1960年生まれ、東京都在住 東京教区連光寺住職



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