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知らず知らずのうちに みんなの法話

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知らず知らずのうちに
本願寺新報2005(平成17)年10月20日号掲載
愛媛・宝寿寺衆徒 村上弘徳(むらかみ こうとく)
幼い自分を思い出して

先日、ご門徒の家へご法事にお参りしました。
その家には三歳の男の子がいました。
非常に元気のよいその子にとって、家族や親戚が大勢集まる法事の場は、お祭のように思えたのか、いざおつとめが始まると、あっちこっち所狭しと走りまわるのです。

最初は親戚の方々が「元気のいい子だね」と、優しく話し掛けていたのですが、時間が経過するにつれ、家族の人に「静かに座っていなさい」と注意されるようになり、最後にはその子の足音一つ聞こえなくなってしまったのです。

休憩となり、私が後ろを振り返ってみますと、その男の子の姿が見えません。

「あれ、子どもさんの姿が見えませんが、どこに行かれたのですか?」と尋ねますと、お母さんが「あまりにも騒がしいので、お寺さんに迷惑かけてはいけないと思い、別の部屋でテレビを見させています」と返ってくるのです。

「私には何の迷惑もかかっていませんよ。
一緒にお参りさせてあげてください」と申し上げました。
そうすると、男の子はうれしそうな顔をしながら仏間に戻ってきたのです。

手合わせたのはいつ頃
みなさんにもこのような経験はなかったですか?この男の子を見ていると、私も同じような経験をしたことを思い出しました。
幼い頃の私も、仏事の時は本堂や廊下を走りまわり、両親や祖父母によく怒られました。

「せっかく広い部屋があるのだから、遊ばせてくれてもいいじゃないか」とか、「足が痛いから座りたくない」と反抗していたものです。

ところが年を重ねていくうちに、本堂であれほど騒いでいた私が、いつの間にか、心静かに手を合わす習慣が身につくようになっていました。
「いつの頃から手を合わすことができるようになったのだろう」と自問してみても、私自身思い出すことができません。

ただ言えることは、両親や祖父母、親戚の方がそうされている姿を見聞きして育っていくうちに、自然と自分のものとして身に付いてきたとしか考えられないのです。
みんなが静かに座っているから私も静かに座り、みんなが手を合わせているから、そのまねをして手を合わすというように、知らず知らずのうちにお育てにあずかっていたのです。

ありがたいいまここに
親鸞聖人は「正信偈」の中に「煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずいへども、大悲、倦(ものう)きことなくしてつねにわれを照らしたまふ」(註釈版聖典207ページ)と示されています。
煩悩の身には、阿弥陀さまのお慈悲は見えないけれど、阿弥陀さまは片時も休むことなく私たちの煩悩の闇を照らし続けていてくださる、とおっしゃられます。

子どもが騒ぐからといって別の部屋に連れていくのではなく、今、走り回っているこの子にも常に如来の大悲がそそがれていると味わいたいものです。

そして時には優しく教え、時にはきびしく注意して、親子が一緒にお仏壇の前に座り、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と、お慈悲のよび声を聞かせていただくことが大事なのです。
そうすれば、大人は大人なり、子どもは子どもなり、そして私は私なりに、如来の大悲が自ずから体全体に浸透されてくるのだと自身の経験から思うことです。

『教行信証』には「前(さき)に生れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願はくは休止(くし)せざらしめんと欲す」(同474ページ)というお言葉があります。

先に生まれた人は子や孫を導き、後から生まれたものは親や祖父母の生きざまに自らの道を見いだしていく、そんな終わりのない阿弥陀さまのお育てをお示しになっています。

阿弥陀さまのみ教えは亡くなったら終わりというみ教えではなく、親から子や孫へと伝道されていくみ教えなのです。
そして、先に往生された方々のいのちが、いま私の上で生き続け、はたらいてくださる世界がここにあるのです。
だから家族一緒に、阿弥陀さまのお慈悲に照らされてここにいることがありがたいのです。

「ここにいることがありがたい」

ある先生のお言葉です。
このお言葉が身にしみる、ご法事のご縁でした。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/