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眼前に広がる世界 みんなの法話

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眼前に広がる世界
本願寺新報2006(平成18)年10月20日号掲載
布教使 岡本 信悟(おかもと しんご)
恵みの大地も坪いくら

ご縁あって岩手県のお寺にお参りさせていただきました。
まだ暑さも残る九月上旬、これから刈り入れの農繁期を迎えようという時期でした。
夕方近くにご法座が終わり、宿に向かおうと山門を一歩出た所でハッと息をのみました。
そこには実って重そうに頭(こうべ)を垂れている稲穂がどこまでも続き、夕陽に照らされてまさに黄金(こがね)色と表現される広大な田園風景が広がっていたのです。
しばし歩みを止めて見入っている私の心に浮かんだのは「恵みの大地」という言葉でした。

日々の生活の中で大地を意識することが大変少なくなりました。
そういえば子どもの頃は休耕田でたこ揚げをし、広場で野球をし、野山を駆け巡り、日が暮れるまで飽きもせずに遊んだものです。
遅くなって怒られることもしばしばありましたが、そのほとんどにおいて大地と直接ふれあっていたと思います。
大地は広大なる遊び場でした。
しかし、最近では田んぼが埋め立てられ、空地も少なくなり、アスファルトの上を歩くことが多くなったことに伴い、じかに大地にふれる機会が減り、大地を意識することが少なくなりました。
意識をするときは「坪いくら?」でしょうか。

「恵みの大地」という言葉が浮かんだ時、以前あるご法話で心のあり方によって見えてくる世界が違うことについてお話いただいたことを思い出しました。

お寺の中心は如来さま
時代とともに外観は大きく変わりましたが、大地自体に変わりはありません。
変わったのは大地ではなく、私の心のあり方、ものの見方のようです。
その大地が「坪いくら」に見えるようになったのは、私の心のあり方・見方が変わったからでしょう。
私の見方によって大地は、恵みの大地になり、私が遊んだ大地になり、坪いくらの大地に変化していきます。

私たちがお参りするお寺の本堂には中心が定められています。
空間としての中心ではなく、お寺そのものの中心はご本尊である阿弥陀さまです。
お寺は教えを聞くために存在します。
そのお寺の中心が阿弥陀さまであるということは、お寺で聞く教えは阿弥陀さまが中心である教えを聞くということを意味します。
阿弥陀さまが中心となったときと私が中心となったときでは、ものの見方に大きな違いがあります。

見方が違えば見えてくる世界が変わります。
阿弥陀さまの心のあり方・見方の前に広がる世界を、お経には「浄土」と説かれています。
対して私の心のあり方の前に広がる世界は...。
怒りの心の前に広がる世界を地獄といい、むさぼりの心の前に広がる世界を餓鬼、愚かさ(誤った見解)の前に広がる世界を畜生というそうです。

自らを省み励まされて
怒りもむさぼりも愚かさも、縁にあえば起こってくる私の心のあり方です。
そして忘れてはいけないことは、私の心の外に怒りやむさぼり、愚かさがあるのではなく、怒りむさぼるそのままが私の愚かな心だということでしょう。
その心のあり方の前に広がる世界が地獄・餓鬼・畜生という形で教えとなって説かれ、あってはならないあり方であることを知らせてくださるのです。

あってはならないあり方と知らされたそのことは私の心のブレーキとなります。
そして「浄土」はあるべきあり方の前に広がる世界として、私が目指すべき方向を示してくださっています。
しかし、あってはならないあり方であることを知らされてもわき上がってくる愚かさに、先輩方は「お恥ずかしい」という言葉と、教えを聞き続ける中に我が身を省みることの大切さを残してくださったのだと思います。

お寺にお参りし阿弥陀さまの心のあり方・見方を聞かせていただくこと、つまり教えを聞くことはとても大切なことです。
教えを聞くことは私自身の心のあり方・見方を一つ一つ阿弥陀さまに確認することではないかと思います。
私たちは日々の忙しさに自らを省みることを忘れてしまいがちですが、教えを聞く中に一つ一つを確認し、時には間違いに気づかされ、時には励まされ、そして自信をつけていただくところに、浄土真宗の門徒としての生き方が恵まれていくのでしょう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/