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真実を受け継ぐ みんなの法話

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真実を受け継ぐ
本願寺新報2005(平成17)年5月10日号掲載
東京・覺證寺住職細川 真彦(ほそかわ まさひこ)
次郎くんも三代目襲名

この春、伝統芸能の世界では華やかな襲名披露の話題が重なりました。

歌舞伎(かぶき)界では、人気役者の中村勘九郎さんが十八代目勘三郎を襲名しましたし、落語界では、テレビタレントとしてもお馴染みの林家こぶ平さんが九代目正蔵を襲名しています。
かわったところでは、「ハンセイ!」のポーズで有名なサルの次郎くん、こちらも見事、三代目を襲名しました。

いずれにしても、襲名は単に名前を継ぐだけでなく、その名とともに伝えられてきた芸を継ぐことにほかなりません。
ですから、何代もつづく名跡があるような一門には、「得意な芸はこれだ」というお家芸が必ずあります。
襲名をして名跡を継ぐのも、その一門が長くつづいていくのも、肝心なお家芸が受け継がれていくからこそ意味があるといえるのです。

浄土真宗のお家芸とは
では、長い伝灯(でんとう)と歴史をもって私たちにまで受け継がれてきた浄土真宗の要(かなめ)、浄土真宗の一門に受け継がれてきた「お家芸」といえるようなものは何でしょう。

それは端的にいえば、「他力の信心」だということができるでしょう。

お釈迦さまをはじめとする十方の諸仏、インド・中国・日本の七人の高僧方、そして、このみ教えを「浄土真宗」と名づけられた親鸞聖人。
さらには覚如さまや蓮如さま、近くは師友や家族をとおして、私たちはお念仏のみ教えを受け継ぎました。

もちろん、誰も襲名披露なんて大げさなことはしませんし、何代目の念仏者かなんてことは考えようもありません。
ただ、途方もなく長い時間をかけて、それこそ数限りない名も知れない人々に受け継がれて、お念仏が今この私にまで届いています。

そしてこのお念仏が、他流や他門のものとはひと味もふた味も違う、親鸞聖人のお説き下さった浄土真宗のお念仏だといえるのは、南無阿弥陀仏のみ名が、そのまま私の信心となってはたらいている、信心からあらわれてきたお念仏だからです。

「しかれば、祖師聖人(親鸞)御相伝(ごそうでん)一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす」(御文章=註釈版聖典・千114ページ)

この信心は、「他力真実信心」といわれていますように、決して私の心でつくったものではありません。
ですから、どうしようもないわが身だと自らの煩悩を歎き、私は救われないと自分の心で決めつけるのはもちろん、逆に、たとえどんなに感激して喜びに満ちあふれていたとしても、その喜びをあてにして自分の救いに間違いなしというならば、それは他力の信心とはいえません。

もしこうした私の心の上につくりあげた確信を信心といい、そこで救いを語るとすれば、いくらお念仏をとなえていても、それはもう浄土真宗ではないのです。


はからいが否定される
親鸞聖人は、自らの心のよしあしをあて頼りにして救いの確証を求めようとすることを自力心と名づけ、それを明確に否定されました

なぜなら、それは救いを自分の心のなかだけの問題にしてしまって、阿弥陀さまのお慈悲のはたらきを否定してしまうことになるからです。
ここに私たちが迷ってきた原因があるといえます。

阿弥陀さまのはたらきによって、こうした自分の心を救いのあて頼りにしようとする私の思い、はからいが、つねに否定されていくのが他力信心のありようなのです。

浄土真宗のお家芸としての信心は、単なる気の持ち方というような心のありようなどではなく、自らの心をあてにしようとするはからいが阿弥陀のはたらきによって否定される、如来からたまわりたる他力回向の信心でした。
この私にまで大切に受け継がれてきた伝灯の要、浄土真宗の要はここにあります。

蓮如上人が『御文章』に、何度もくり返しお説き下さったのは、まさにこのことだったのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/