真実の物差し みんなの法話
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真実の物差し
本願寺新報2003(平成15)年3月10日号掲載
広島・勝圓寺副住職 勝岡 義弘(かつおか よしひろ)
やっぱり健康第一!?
「食欲がないんよ、食欲が。
体重も減って、気分まで落ち込んで...」
友人がなげいていました。
身体頑健とは彼のこと。
お酒も強く、友人と遅くまでお酒を飲んだ次の日に「山へ芝刈りに行くぞ」と、元気な声でゴルフ場へまっしぐら。
仕事もバリバリ。
風邪をひいて熱があっても「俺は熱に強いんだ」と、三十八度くらいの熱も平気な彼でした。
そんな彼が病院のベッドに横になり、「病院の食事もおいしくない。
家で食べてもおいしくない。
まいった、まいった。
なんでこんなことになったんだろう。
俺はどうなっただろうか。
みんな、なぜ病気なんかになるのか不思議だったのに」と。
病名は「すい炎」。
膵臓の炎症です。
四十歳を越えてはじめての入院。
「病気に一番縁の無いやつが入院した」と友人たちがお見舞いに行きました。
見舞いに来た友人に彼は言うのです。
「健康が一番よ。
健康が。
人生なにが大事か、やっぱり健康よ。
みんなに言うけど、身体に気をつけろよ」
私にも彼は言いました。
一緒にお見舞いに行った友人が、「そうだな。
でも今まで大きな病気をしたことがないお前にとって、いい機会じゃないの。
病院のベッドの上で考えろということよ。
身体のことも、生活のことも」と応じました。
すると彼は珍しく、「そうだな」とうなずいたのです。
帰り道、「考えろと言ったら、素直に聞いたな。
きついことを言ったかな。
でも何かビックリしたよ」と二人で顔を見合わせました。
「健康第一」
よく言われることです。
健康であれば仕事はもちろん、人生の大きな壁にも立ち向って行き、乗り越えることもできます。
でも、もしそうでなかったら...。
健康でなくなったら...。
そうです。
今まで自分で培ってきた物差しで自分の山坂を測り乗り越えてきたのに、その物差しが通用しなくなるのです。
健康でなくても通用する、新しい物差しが必要になるのです。
仙人の経を焼き捨てて
阿弥陀如来の教えをいただかれたインド、中国、日本の七人の高僧方を「七高僧」といいます。
そのお一人に中国の曇鸞大師がいらっしゃいます。
幼少から仏教に親しまれ、多くのことを学び修められた方です。
大師は『大集経(だいじっきょう)』というお経を学ばれていましたが、ある時、急な病にかかられました。
「病気になっては、仏教の勉強も中断しなくてはならない。
まして死んでしまえば志半ばで終わってしまう」と思われたのでしょう。
当時、盛んであった「長生不死の法」である仙術(仙人の術)を学び、「仙経十巻」を得たといわれています。
仙術を学ばれた後、曇鸞大師は仏教の高僧・菩提流支(ぼだいるし)に 出会われるのです。
仙術を学んだことを菩提流支に話されたのですが、菩提流支は「そんなものが何になるのか。
死を越える道が説かれるのはこのお経だ」と大師をさとされ、『観無量寿経』を授けられたのです。
そして、大師は仙経を焼き捨て阿弥陀如来の教えへ入っていかれたという話が伝わっています。
この出会いによって、長生不死の法を説く「仙経」という物差しを捨て、阿弥陀如来のお念仏という物差しをいただかれていったのです。
受け止め方がちがう
浄土真宗では、仏さまの教え、南無阿弥陀仏のおいわれを聞くことが最も大切です。
柳宗悦という方が、浄土真宗の門徒が聴聞される様子を「めったに自分の智慧は持ち出さぬ。
それ故批判はせずに、有り難く受け取る気持ちの方が強く働く。
...だから受け取り方に底が無いとでもいおうか。
信徒たちは語る人にも左右されず、また、聞く自分にも左右されず、素直に法を受け取りに行く」と表現されています。
「私たちは何かというと腹を立てたり、悲しんだり苦しんだり致します。
それはものの受け取り方が下手なためだと思います。
妙好人の伝記や、言行録を読むのを好みますが、なぜかと申しますと、ものの受け取り方の素晴らしい名人をそこに見るからであります」ともいわれます。
自分中心の知恵、自分の物差しでは、間に合わないで、嘆き悲しみ苦悩する私。
一方、お念仏の教えを深くふかくいただかれた人、妙好人は、ものの受け取り方が普通と違い、「ものの受け取り方の名人」と感じられたのです。
お念仏を喜ぶ方は、物差しが違います。
阿弥陀如来の智慧、阿弥陀如来の物差しをいただく人は、病など人生の障害にであったとしても、そこに尊い意味をもって受け止めていかれるのです。
若いときも、歳をとっても、元気なときも、病の床にあっても、それを貫く仏さまの物差しがあるのです。
「ダメだ」とか「つまらぬ」などと言われず、「摂め取って捨てぬ」と抱き育む物差しです。
自分のつくった物差しは、取り替えねばなりません。
しかし、仏さまの物差しは、真実・まことです。
私が、人生を本当に見直す物差しとなるのは、仏さまの物差しです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |