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生まれてきてくれてありがとう みんなの法話

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生まれてきてくれてありがとう
本願寺新報2006(平成18)年9月10日号掲載
布教使 清胤 弘英(きよたねこうえい)
平和な反面貧富の差が

おつとめの聖典の初めのところに「礼讃文(らいさんもん)」(三帰依文(さんきえもん))というご文がのっています。
その中に「至心(ししん)に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)したてまつるべし」という言葉があります。
この「三宝」とは「仏(ぶつ)」「法」「僧」のことです。
「仏」は仏さま、「法」は仏さまのみ教え、そして「僧」は、仏さまのみ教えに生きる人々の集まりのことです。

しかし、私たちは「宝」というと、お金や財宝などを思い浮かべがちです。
皆さんはいかがでしょうか?

本来、宝とは、それを持つことにより心豊かに過ごすことができるものを宝と呼ぶはずです。
ですから、宝だと思って追い求め、やっと手に入れたものの、それを持つことにより悲しみや苦しみを背負うようでは、本当の宝とはいえません。

先日、ある国が長い戦争を終え、ようやく平和になったものの、経済の発展とともに貧富の差が広がり、お金を手に入れるため、麻薬や人身売買、売春などが広がったという内容のニュースがありました。
戦争中は「いのち」が大切だと皆が協力し、わずかではあったけれども食料も何とか手にして生きのびてきたにもかかわらず、平和になってお金が人の心を支配し、お金を手に入れるため、人の命までもが売り買いされるという悲しい現実でした。

自分の命に感謝できず
この日本も経済発展をとげ、私たちは平和で豊かな暮らしを味わっているようですが、その反面、さまざまな「いのち」を粗末にする痛ましい事件が各地で起きています。
それは「いのちは尊い」と言いながらも、私たち一人一人が自分自身の人生やいのちに本当に感謝できる生き方を見失っているからではないでしょうか。

仏教の教えは何が宝かを知らせてくれる教えです。
ことに最近、親子として縁を結びながらも親が子を虐待したり、子が親を殺害したりと、悲しい親子関係が増えているようです。
そこには豊かさの陰で、親となりながらも自分勝手な楽しみばかりを求め、子どもの世話も十分にせず、子どもがうるさく煩(わずら)わしくなれば子どもを虐待し、我が命を受け継ぐ大切ないのちという心を見失っているのではないでしょうか。

また、子どもは子どもで、甘やかされて育てられ、苦労や困難を不平と不満としか受け止められず、育ててもらったという感謝やよろこびを見失い、親までも疎(うと)ましく思ってしまっているのではないでしょうか。

そういう意味からすると、やはり昔の日本人は、貧しさの中にあっても親は子を一生懸命育てようと努力や苦労をし、それを見つめながら育った子どもは親に感謝し恩を感じ、手と手を合わす世界を大切にしてきたのではないでしょうか。

孫の言葉にしみじみと
先日、あるお宅のご法事で、こんなお話しを聞きました。
お孫さんがおばあさんに、お墓の前で「おばあちゃん、生まれてきてくれて、ありがとう」といったそうです。
「えっ」と思っていると、続いて「だって、おばあちゃんが生まれてきてくれて、おじいちゃんと結婚してお父さんが生まれ、お父さんがお母さんと結婚して私が生まれたんでしょう。
だから、おばあちゃん、生まれてきてくれてありがとう」と。

とてもうれしかったそうです。
生まれてきて、さまざまなことがあったけれども、私に手を合わせてくれる孫に出遇(あ)え、そしてこのような優しい言葉を掛けられ、本当に生まれてよかったとしみじみと思ったのだそうです。
また、そのよろこびをもって、いつ死はおとずれるかわからないけれども、豊かな心持ちで人生を歩んでいけるような気もしたのだそうです。

私たちは仏法に出遇い、阿弥陀さまのご本願に出遇い、阿弥陀さまに「お願いだから我が国に生まれると思ってお念仏を申しておくれよ」と仏さまに拝まれている身なのです。
私たち一人一人が「生まれてきてくれてありがとう」といわれている身なのです。

仏さまとそのみ教えを「宝」と味わうとともに、その教えに出遇えた私たちも、自分自身の人生やいのちこそ宝であったと三宝を受けとめたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/