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生きている という事は決して私の力ではないのだ

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1995(平成7)年の夏、罹災(りさい)者の人々が暮らす阪神淡路(あわじ)大震災の町・神戸市長田(ながた)区の公園でのことです。ひと作業終えて一服(いっぷく)入れようと木陰(こかげ)に向かおうとしたその時、「おい、ちょっとあんた!」と大声で呼び止められたのです。そこにいたのは、公園で暮らす人々が立ち上げた自治会の副会長Wさんでした。Wさんとはすでに面識(めんしき)があったのですが、これがその5年後にWさんが亡くなるまでの長いつき合いの始まりでした。「あんたに鍵(かぎ)、預けるよ」と言いつつ、私の手に二本の鍵を握らせました。それは公園内にあったテントの入口を塞(ふさ)いだだけの援助物資の保管倉庫のものでした。「あんたを陰から半年間見ていて決めたんや。来れる日だけでいいから」ということでしたが、倉庫の管理をしてほしいというのです。京都から毎日神戸まで通えるはずもないので即座に断りましたが、半年間も見られていたのかと思うと、心中は青ざめ、赤面しました。そうして、結局はいろいろと事情を聞かされてしまい、条件付きで承諾(しょうだく)することにしました。

 その後、罹災者とボランティアの立場を越(こ)えたWさんとの親密な付き合いが続く中で、この出会いが次第に大きな意味を持ってくるようになりました。一晩中飲み明かして兄弟の杯(さかづき)を交(か)わしたのもそんないきさつからでした。その意味というのは「百年の知己(ちき)を得た」ということにでもなるでしょうか。震災直後からボランティアを続けながら、何度もくじけそうになり、非力を認識させられ、自分の生き方にさえも疑問を感じるようになっていた時でした。ボランティアの人々の中には、自分自身の生き方を求めてやって来た人も多かったろうし、やって来たことで新たな課題や疑問や悩みを抱え込んだ人も多くいたでしょう。私自身もそういった状況に陥(おちい)っていました。ちょうどそこでWさんと出会ったのです。何度も夜を徹(てっ)して語り合い、約10歳年上のWさんの人生からさまざまなものを教えられました。助けるつもりでやって来ている自分が助けられました。また、そのようにしてボランティアの心を育(はぐく)んでいくことになりました。

 以前、管仲(かんちゅう)(中国春秋(ちゅうごくしゅんじゅう)時代の斉(せい)の大臣)の伝記を読んだことがありますが、彼はその晩年に「我を生みし者は父母なるも、我を知れる者は鮑子(ほうし)なり」(「史記 管晏列伝」)という言葉を残しています。「管鮑(かんぽう)の交(まじわ)り」という成語にも名を残す人の言葉ですが、決して父母を軽視したものではなく、鮑叔(ほうしゅく)という生死を懸(か)けるに値(あたい)する生涯の知己を得たことの悦(よろこ)びをズバリと言い切っています。私たちは自分自身のことを鏡に映(うつ)る自分の虚像(きょぞう)程度にしか知らないと思います。だからいつも迷子(まいご)になってしまいます。そんな時、自分自身の姿を教えてくれ、理解してくれるのが知己という存在ではないでしょうか。Wさんと私は管鮑という希有(けう)の人々とは雲泥(うんでい)の差ですが、Wさんから預かった鍵を今も見るたびに、Wさんとの出会いによって今を生きる力を与えられ、3年前に亡くなったWさんによって生かされている今日の自分がいることを思うのです。


東村 和久(ひがしむら かずひさ) 1949年生まれ、京都府在住 大谷中・高等学校教諭(国語科)



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