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無縁の慈悲と有縁の慈悲 みんなの法話

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無縁の慈悲と有縁の慈悲
本願寺新報2003(平成15)年8月1日号掲載
龍谷大学学長神子上 惠群(みこがみ えぐん)
すべての命は父母兄弟

お盆の行事は、目連尊者が七月十五日(旧暦)に十方の僧を供養し、その功徳によって餓鬼道に堕ちていた亡母を救ったことに由来しています。
お盆は、ご先祖のみたまを祭り、またお墓参りをし、追善供養によって一家一族の息災を願うというのが一般的です。

それに対して『歎異抄』第五章の「父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」(註釈版聖典834頁)という親鸞聖人のお言葉は、死別した両親に追善することは人間の道徳的義務だと考えている人や、また称名念仏してあの世の両親のために仏の加護を祈ろうとする者には、衝撃的です。

親鸞聖人が父母の追善供養のために念仏申されなかった理由は二つあります。
一つは、念仏は決して自力の善根ではありませんから、念仏を回向して、父母をたすけるなどということは道理に合わないからです。

もう一つの理由は、生みの父母のみならず、すべての有情(うじょう)はみんな世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟であり、たすけなければならないのは現世の父母だけではないからです。

近親者への愛を捨て、愛を生きるものすべてに向けねばならないと、道元禅師も有縁の慈悲を否定して、無縁の慈悲の実践者たるべきことを説いておられます。
「自分の修行のことばかり考えて、看病をする人が誰もいない老母の世話をしなかったなら、それは菩薩の行(利他の行)に背くのではないか」との問いに対しても、道元禅師は「親の老病をたすけようと世話などするのは生きているこの世でのわずかな間、迷った心でよろこぶにすぎない。
それに背いて、無為(むい)の仏道を学んだら、たとい死に目に会えない恨みは残っても、生死(しょうじ)離脱の縁となるだろう」と答えています。

懐奘(えじょう)禅師は、この答えを聞いて、老母への最後の見舞いを諦(あきら)めてしまいます。

凡夫の宗教の温かさが
私はこういう話を読むと、あまりの非情な厳しさに嘆息(たんそく)が出てしまいます。
しかし、道元禅師は、在家の者には、出家のように父母の恩を捨て、仏道に入ったのではありませんから、存命中であれ死後であれ、父母に対する報恩の行を認めています。

親鸞聖人の場合は、在家・出家の区別なく、父母に対する追善供養は否定されますが、「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、...神通(じんずう)方便をもつて、まづ有縁を度(ど)すべきなり」(同835頁)と最後に申されています。

本願他力の教えに帰し、お浄土でさとりをひらき、仏となれば、まず有縁の者を救うことになるというのです。
愛を父母に限ることは、無縁の慈悲、すなわち愛の普遍化の理想からいって、この世では強くいましめられていますが、さとりをひらき仏となれば、愛はまず有縁の者に向けられてもよいというのです。

無縁の慈悲の完全な実践者であります仏が、かえって有縁の慈悲を優先するということは、論理的には矛盾しているように思いますが、「父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」ということのうちに現れる有縁の慈悲の否定の上に、すなわち無縁の慈悲への意志の上に立っての有縁の慈悲の肯定がここに見られます。

このメッセージのうちに、聖者の宗教とは異なる凡夫の宗教の温かさを感じとることができます。

親子の縁の特別な意味
釈尊は、父母の恩はどんなに善行を尽くしても報いることのできない大恩であると説いておられます。
両親は子を生んだ者であり、養育した者であり、人生を説き示した者であって、そのために広大な善をなしたからです。
実際、生み育ててくれた父母の恩を感じない者はないでしょう。
その恩愛の情は煩悩にすぎなく、血縁に制限された愛を普遍的な愛へと転換しなければならないとしても、しかしこのことは、親子の縁の特別な意味をまったく無くしてしまうわけではないはずです。

私は「まづ有縁を度すべきなり」をこのように味わっております。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/