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無縁のものを救う みんなの法話

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無縁のものを救う
本願寺新報2006(平成18)年11月20日号掲載布教使 牧 教寿(まき きょうじゅ)いつ頃からお念仏を朝のおつとめで、今日の一日がはじまります。
二歳になった息子も一緒にお参りします。
先日、その息子の口からナンマンダブとこぼれ出ました。
驚いて振り向くと、目線が合いニッコリと笑っています。
聞き間違いかなともう一度お念仏を申しますと、確かにナンマンダブと...。
生まれて初めてのお念仏でした。
その息子の姿に感動しつつ、そういえば私はいつ頃からお念仏を申すようになったのだろうか? ふっと思いました。
</p>ときには、自分がいつ頃から手を合わせ、お念仏を称えたのか、思いを至らすのもよいかも知れません。
なぜなら、最初からお念仏を申す者は一人もいないからです。
</p>私たちは誰もが例外なく裸で生まれてきます。
そして、たくさんのものごとを、数えきれないほど多くの方々から教えられ、伝えられてきました。
それなのに、知らず知らずのうちに自分の力で生きてきたと錯覚し、感謝どころか、むしろ不平や愚痴をこぼしています。
たとえ申し訳ないと思っても、恩を仇(あだ)で返す生き方をしているのが、この私です。
</p>そのような私が手を合わせ、お念仏を申すということは、少なくとも我が力によるものではありません。
仏さまと無縁であった私が、いつの間にか阿弥陀さまのお育てにより有縁の者につくりかえられていたのです。
</p>今この私にはたらく仏阿弥陀さまは生きとし生けるものを救わんがために、捨ててはおけない、必ず救うとご本願を成就してくださり、南無阿弥陀仏となって私にはらたきかけてくださっています。
南無阿弥陀仏は仏の名のりでもあります。
また、自分がよびかけられ、ハイと答えることでもあります。
たとえるなら、迷子の名前をよぶ親の声は、そのまま親はここにおるぞとの名のりでもあります。
</p>そのお念仏がはたらく場所は今、この私以外にはありません。
どこまでも阿弥陀さまの大慈大悲の心は深く、私に寄り添ってくださっています。
それは大慈大悲のお心による私たち一人一人へのはたらきとなっています。
大慈大悲とは、自己中心的な生き方しかできない無縁の者をも救うというお心です。
</p>この慈悲の心が私たちにもあるようです。
それは親が子をおもう心のことで、小慈小悲ともいいます。
相手の幸せを自分の幸せとおもう心で、しかも見返りを求めない心です。
けれども、親の心子知らずとはよくいったもので、なかなか気づきません。
気づいた時には親孝行も恩返しも間に合わないことが多々あります。
</p>この親孝行したいという気持ち、恩を恩と知ることはすばらしいことです。
なぜなら、この「恩」という漢字は「心」の上に「因」が乗せられていますように、それは私の心が育つ因が「恩」にあるということを教えてくれています。
</p>これまでの人生において、大きく育(はぐく)まれてきたはかり知れない多くの原因(ご恩)に対して、感謝して生きていくということです。
その中でも、阿弥陀さまのご恩は、恩返しで返せるほど小さいものではありません。
そのご恩を感じて生きていくということです。
阿弥陀さまや有縁の方々のお育てにより恩を恩と知らされ、それが次世代へ、家族や周りの方々へと伝わってきました。
</p>何一つないムダなもの私が手を合わせ、お念仏を申すようになったのは、おばあちゃんのおかげです。
幼い頃、いつもおばあちゃんに連れられてお参りをしていたそうです。
その膝(ひざ)の上で、やさしく私の手を包み込んで手を合わせ、一緒に南無阿弥陀仏と...。
身も心も仏さまとは縁の無い生き方をしてきた私が、おばあちゃんをはじめ多くのお育てのおかげでやんわりといつのまにかに、その阿弥陀さまのぬくもりにいだかれていました。
</p>まさに無縁の者をも救うと、ほとばしる大慈大悲のお心から、背こうとも裏切ろうとも必ず救うという阿弥陀さまが、この私にはたらきかけてくださっているのです。
人生の悲しいことも苦しいこともさびしいことも、阿弥陀さまの大慈大悲のお心に遇(あ)えば無駄なものは何一つないのです。
</p>今日も新たな朝を迎え、息子とお参りすることができました。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/