浄土を知らされた人生 みんなの法話
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浄土を知らされた人生
本願寺新報2006(平成18)年5月1日号掲載
行信教校講師 中西 昌弘(なかにし まさひろ)
恩師の姿に何より感動
お浄土という永遠のいのちの領域を知らされた人生は、「人間死ねばどうなるのか」という問題に対する解決が既に与えられています。
ですから死の縁もまたありがたいという心境が開かれてくるのでしょう。
そのことを教えてくださったのが、私の恩師でした。
病室を見舞った時のことです。
その時、お身体(からだ)はやせ細っておられましたが、やさしいまなざしで私を迎えてくださいました。
おそらく「心配をかけさせないでおこう」というお気づかいもあったのでしょう。
始終おだやかに応対してくださいました。
そして何よりも感動させられたのは、ベッドの上で原稿を書いておられたお姿でした。
日頃からお念仏のみ教えを味わわれていた先生らしいお姿に、本当にありがたいものを感じさせていただきました。
現代の医療を考えてみますと、その進歩はめざましく、たとえ末期がんであっても、身体的な痛みをほとんど感じなくすることができるようです。
そして病気の進行もおさえますから、正常な時とほぼ同じ状態で、意識も失わずに死を迎えることができるのだそうです。
その結果、延命効果によって、自分の死を見つめながらの日々を過ごさねばならなくなります。
自由自在に救いの活動
そこでいよいよ大切になってくるのが、心の問題です。
いわゆる死の準備教育です。
けれども私たち念仏者にとりましては、もうこのような教育は必要ありません。
なぜならば、既にお浄土という世界を知らされているからです。
この私のいのちは、お浄土に往(ゆ)き生まれさせていただくいのちです。
そして、そのお浄土はまた、自在無礙(むげ)の救いの活動の始まる世界でもあります。
お葬式の後におつとめでいただくご和讚に
<pclass="cap2">観音・勢至もろともに
慈光(じこう)世界を照曜(しょうよう)し
有縁(うえん)を度(ど)してしばらくも
休息(くそく)あることなかりけり
(註釈版聖典559ページ)
とある通りです。
ですから、先生も淡々としてニコヤカに応対してくださったのでしょう。
病室からエレベーターまで送ってくださった先生のお顔を拝見すると、あついものがこみあげてきましたが、「先生、先にお往(ゆ)きください。
私も必ず往かせていただきます」と思わず心の中で申していました。
これが先生との今生の一旦(いったん)の別れでした。
私たち人間にとりまして絶対に解決できない問題があります。
それが生死(いわゆる生と死)の問題です。
どれほどの人間の知恵をきわめつくしても、適確な答えは出てきません。
それは私たち人間の煩悩は生死の問題を解決できるような構造になっていないからです。
その時に、この私の愚かな考えを離れて、アミダさまのご本願のみ言葉をこの私の答えにさせていただくのです。
死の意味が転換される
「死ぬと思ってくれるな、生まれてくると思っておくれ」と、アミダさまは私たち一人一人に仰せになっておられます。
このみ言葉が素直に受け取ることができるかどうかが問題です。
私たちから見て「死ぬ」としか思い取ることのできないことを「生まれてくると思いなさい」とおっしゃるのです。
死という事実は変わりませんが、死の意味を転換してくださるのが、アミダさまの本願のみ言葉です。
このみ言葉をはからいなく受け入れてお念仏申させていただくのが、信心の行者のすがたです。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、お念仏申させていただく一日一日の人生が、実はアミダさまとご一緒のお浄土への道中なのです。
そして息絶えた時がお浄土への生まれさせていただいた時です。
このように、お念仏申させていただくことが、お浄土を目指して生きる私たち念仏者にとりまして一番ふさわしい生き方であり、また一番落ちつける行き方なのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |