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浄土への道 みんなの法話

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浄土への道
本願寺新報2005(平成17)年3月20日号掲載
大阪・明教寺住職  不死川 浄(しなずがわ じょう)
迷いの私に真実を示す

いま私たちは、この地球に、それぞれの国や地域に、無始以来のいのちを受け継いで、それぞれの荷物を背負って生まれてきました。

私たちはこの世に生まれ、どう生きようとしているのか、またどこに向かって生きようとしているのでしょうか。

この問題に答えているのが仏教であり、浄土真宗のみ教えです。
私たちがこの世に生まれ、私が私であって本当に良かったと喜び、たとえ短い人生でも悔いない人生を生き抜いていく道を教えているのです。

しかし、多くの人々は、この問いに正面から取り組もうとせず、解決を求めないまま、目先のことに追われて、自我の満足・欲望の充足を求めて生きているのではないでしょうか。
この生きる方向がわからないことを、仏教では「迷い」の状態であると教えています。

「迷い」とは、進む道がわからないことであり、救いとは、進む道が明らかになることです。

進む道を見失い、迷っている私たちに、お願いだからお念仏を支えとして、私の国であるお浄土に生まれてほしいと願いを建てられ、浄土への道を示して下さっている仏さまを阿弥陀如来といいます。

浄土とは、死んでからの問題ではありません。
いま私たちに真実の生き方をよび覚まし、真実に生きる道を示して下さっているのです。
浄土真宗は、単なる浄土まいりの教えではありません。
浄土への道を問い聞いていくみ教えです。
浄土の真実を宗(依りどころ)として、浄土への道を力一杯生きていくみ教えです。

失いざかりの中高年!?
『歎異抄』の第七条に、「念仏者は無礙(むげ)の一道なり」(註釈版聖典836頁)とありますように、念仏者は、礙(さわ)り多き人生にあって、礙りを乗り越えていく道を歩んでいくということです。

昨年、あるご住職から、「中高年は失いざかりといいます。
歯を失い、目もかすみ、体力も失い、身内をも失う。
でも失って得ることもあるのですね。
慈光の中では育ちざかりといわれます。
本年もよろしく」という年賀状をいただきました。

年をとっていくということは、いろいろなものを失っていくということです。
本当に中高年は失いざかりです。
失っていくことは、とてもさみしいことです。

しかし、阿弥陀さまの慈光の中では、命終えるまで育ちざかりです。
昔から仏法を聴聞することを、如来さまの「お育て」をいただくと申してきました。
如来さまに育てられていくのです。
人間は育てるものによって変わっていきます。
如来さまに育てられるということは、今まで見えなかったことが見えるようになり、気づかなかったことが気づくようになる。
あたりまえと思っていたことが、おかげさまであったと喜ばせていただけるようになるのです。

この教えを世界の人に
視力や聴力や体力や地位や親しい人を失っていく中で、今までわからなかったことを得させていただくのです。
失っていくことは、とてもさみしいことですが、得させていただくことは大きな喜びです。

念仏詩人・榎本栄一さんの詩に「年をとることも喜びだ、いままでわからなかったことが、一つずつわかってくるから」とありました。

浄土への道を歩む人(念仏者)は、「人生に余生なし」です。
死ぬまで育ちざかりの人生です。
そして娑婆(しゃば)の縁尽きた時、浄土に生まれ、仏さまに成らせていただくのです。
死に向かって生きる人生ではなく、浄土に生まれ、仏さまに成らせていただく人生を歩むのです。

また浄土は、平等の世界であり、いのちが本当に安らぐ安養土(あんにょうど)です。
いまこそ世界中の人々に、この浄土のみ教えを伝えていきたいと願っています。
差別を無くし、平和への道を共々に手を取り合い、命終える時まで育ちざかりの人生を、浄土への道を歩んでまいりましょう。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/