氷と水のごとく みんなの法話
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氷と水のごとく
本願寺新報2007(平成19)年10月20日号掲載
大阪・安楽寺住職 佐々木 徹生(ささき てっしょう)
ご院さんはツマラナイ
私たちの社会は、言葉によって成立している社会であるといえるでしょう。
私は住職として、また布教使として、ご縁をいただいては各地のご法座におうかがいしますが、布教の時もやはり、言葉というものを通して、仏祖のみ教えを、ご門徒のみなさんにお取り次ぎさせていただくわけです。
しかし、その言葉そのものが正確に伝わらないと、よかれと思って投げかけた言葉が、受け止める側は正反対に受け取ってしまうということもあります。
先日のこと、ご法事をおつとめしていた後、お斎(とき)として、みなさんと一緒にお食事をいただくことになりました。
冒頭、そのお家のご主人が挨拶された時、「それではツマラナイご院さんでございますが、お時間の許す限り・・・」とおっしゃり、ビックリしたことがありました。
もちろん「ご院さん」の言葉が前後しただけで、ご本人は「ご院さん、ツマラナイ料理でございますが・・・」と言われるつもりだったのでしょう。
この程度なら笑い話ですむのですが、言葉一つの間違いで大きないさかいにつながっていくこともあります。
人生変えた恩師の言葉
本紙の姉妹紙「大乗」を読んでいると、こんなお話が載(の)っていました。
ご門徒のお宅にお参りに行くと、玄関先によく見かける「犬に注意」という札がありました。
しばらくして再度行ってみると、「人間に注意」という札に変わっていたそうです。
「人間に注意」というのは、最近、世の中が物騒(ぶっそう)になってきたから、人間には注意を、という意味にもとれます。
しかし、「犬に注意」の札から推察すると、この家の人間は猛犬よりも危険だぞ、とアピールしているようにも受け取れます。
同じ言葉であっても、受け止める人によって、いろんな見方があるということを、あらためてこのお話しから考えさせていただきました。
そんな私自身も、言葉によって大きく人生観を変えていただいた経験があります。
「過去を変えることはできないけれど、過去の意味を変えることはできる」
学生時代から、長年ご指導をいただく恩師のお言葉でした。
その言葉によって、まるで心の中の霧がはれたかのように喜んだ私は、先生に、ぜひとも書にして飾らせていただきたいとお願いいたしました。
ところが、先生は「これは私の言葉であって、聖典の言葉ではありません」と私をたしなめられました。
そのお姿に、たとえ勧学和上であっても、仏祖のみ言葉はもとより、言葉に対しては厳生厳密である、また謙虚であるという姿勢を学ばせていただきました。
そして先生はご自身のお言葉に代えて、次のご和讚をお示しになられました。
<pclass="cap2">罪障功徳(ざいしょうくどく)の体となる
こほりとみづの
ごとくにて
こほりおほきに
みづおほし
さはりおほきに
徳おほし
(註釈版聖典585ページ)
「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんふ)」といわれるこの私。
しかし、深い深い迷いの氷も、阿弥陀さまの智慧の光明に照らされると、さとりの水となって溶けてしまう、と私は味わわせていただきました。
教えにあい懺傀の心が
迷いを迷いとも知らず、罪障を罪障とも思わなかった私が今、阿弥陀さまの光によって自らの真実の姿を知らせていただきます。
それは同時に、阿弥陀さまの救いが真実であることを知らせていただくことでもあります。
罪を罪と知らせていただいたこの身には、自(おの)ずから自信を恥(は)じる懺傀(ざんぎ)の思いが起こります。
『涅槃(ねはん)経』には「懺傀なきものは人となさず、名づけて畜生となす」というきびしいお言葉があります。
「畜生」というのは犬や猫ではなく、懺傀なき者だというのです。
確かに犬や猫が刃物を持って・・・なんて聞いたことがありませんね。
最悪の不幸だとしか思えなかった過去が、悔やんでも悔やみきれなかった過ちが、み教えに出あうことによって、懺傀の心とともに「有り難いお育てだった」「すべてが仏縁だった」と転じられていく世界があります。
変えようがなかったこの人生が今、転じられていく。
そこに浄土真宗の救いの大きな特徴があります。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |