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母が教えてくれた他力本願 みんなの法話

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母が教えてくれた他力本願
本願寺新報2007(平成19)年9月1日号掲載
布教使 岩尾 秀紀(いわお ひでき)
自力及ばぬ人生の苦悩

「他力本願」とは、人間関係の上での自分の力、他の力という意味ではなく、広大無辺な阿弥陀仏の力(はたらき)を表す言葉です。

しかし、悲しいことに一般には「他力本願じゃダメだよ。
自力でなければね」という人が多いものも現実です。

でも、これでは「阿弥陀さまの願いじゃダメだよ、私の力のほうが上だよ」と言っていることと同じになってしまいます。

確かに自力ですべての問題を解決するほうが素晴らしいように思えますが、果たして私たちの抱えるさまざまな人生の苦悩は、自力で根本的に解決できるものでしょうか?

親鸞聖人は、

<pclass="cap2">如来の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心をば成就せり
(註釈版聖典606ページ)

と、阿弥陀さまの本願は苦悩の世界を生きる私のために建立されたものであるとお示しです。
すなわち、私の苦悩が自分の力で解決できるものばかりであるならば、阿弥陀さま(法蔵菩薩)の五却思惟(ごこうしゆい)のご苦労もまた必要ないものであったはずです。

1冊の本が家族に光を
昨年は母の十三回忌でした。
母は四十七歳のとき、多発性骨髄腫(こつずいしゅ)という難病にかかり、十年の闘病生活の末、五十七歳で往生しました。
その十年間は、私たち家族にとりまして、本当につらく、そしてとても尊い十年間でした。

家庭の中心でいつも笑っていた人が病に侵されますと、家中から笑いが消えてしまいます。
しかし、その家庭にふたたび笑いを取り戻してくれたのも、その母でした。

それは北海道の真宗大谷派寺院の坊守でいらっしゃった鈴木章(あや)子さんの『癌(がん)告知の後で』という一冊の本との出あい・・・。
同じ年で、同じような病魔に侵されつつも、お念仏に生きた一人の女性との出あいがきっかけとなりました。

「説法はお寺で お坊さまから聞くものと思ってましたのに・・・肺癌になってみたら あそこ ここと 如来さまのご説法が自然に聞こえてまいります このベッドの上が 法座の一等席のようです」(『癌告知のあとで』)

それ以来、ある時はテープで、本で、そして私たちとの会話の中で、母の命がけともいえるベッドの上での聴聞が始まったのです。

それは私たち家族にとりまして、つらい中にも暖かな光に包まれているような心地よい時間でした。

いよいよ臨終にあたって母は、苦しい呼吸の中からしぼり出すように、私に「もう頑張れないよ。
もういいよね」と笑顔で告げ、父や家族一人一人に「ありがとう」と言葉をかけながら、静かに往生しました。

周りの方々は「若くしてかわいそうに」とおっしゃってくださいますが、老病死の苦の世界をしっかり自分のこととして母は受け止め、その人生に納得してお浄土へ往生したようでありました。

私はこの母の十年の闘病生活がそのまま、私にとりましての「今現在説法(こんげんざいせっぽう)」であったと思います。

平等の救いに条件なし
もしもみ教えが難行苦行の自力の道であるならば、ベッドから自分の力で起き上がることさえもできなかった母の往生は不定でありましょう。

「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行(よぎょう)をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり」(『自力他力事(じりきたりきのこと)』同・1378ページ)

わが力ではなく「仏にならんずることも阿弥陀仏の御(おん)ちから」(同)であるからこそ、母は病床にありながらも腹一杯の安心を賜(たまわ)り、お念仏の中に「ありがとう」と生きてくれたのだと思います。

法然聖人は『選択(せんじゃく)集』に「念仏は易(やす)きがゆえに一切に通ず」と示されます。
本願は易行(いぎょう)であり、さまざまな苦悩に生きる私たちを平等に救い取るために建立されたものであるとお示しくださいました。
「平等に往生せしむ」ためには、条件があってはならないのです。

如来の本願力のご回向に「ただほれぼれと弥陀の御恩(ごおん)の深重(じんじゅう)なること、つねはおもひいだし」(同849ページ)てゆく他力にまかせた姿を母が私に教えてくれたと、深く味わわせていただいております。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/