死んだらどうなるの? みんなの法話
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死んだらどうなるの?
本願寺新報2004(平成16)年2月10日号掲載
教学伝道研究センター研究員 那須 良彦(なす よしひこ)
知りたくてたまらない
死んだらどうなるのだろう。
死んでしまうのに何で生まれてきたんだろう。
小学校低学年の頃、死ぬのがとても怖かったのです。
死んだらどうなるのだろうと不安であり、なぜ死ななければならないのかがわからなかったからです。
私は不安でしかたがなく、死んだらどうなるのかが知りたくてたまりませんでした。
私の実家は寺院ではありませんでした。
あるとき父に「死んだらどうなるの?」と尋ねたところ、「死んだら何もなくなる」と答えられてしまいました。
自分のこの肉体が、心が、何もなくなる。
しばしば、夜、ひとり布団の中でふるえていました。
「死んだらどうなるのだろう」「死んでしまうのに何で生まれてきたんだろう」と。
小学三年生の頃、両親のすすめで、小児ぜんそくの治療も兼ねてスイミングスクールに通うようになりました。
それに熱中するようになってから、「死んだらどうなるのだろう」という不安は徐々になくなってしまいました。
いや、考えなくなっていったと言うべきでしょうか。
次第に死の不安は過去のものとなり、忘れ去られようとしていました。
私たち家族は、毎年、盆と正月に母の実家がある茨城県に帰省しておりました。
やさしい祖父母に会うのが楽しみでした。
ですが、私が中学のとき、突然、その祖母が亡くなりました。
焼かれた後は骨だけに
家族で母の実家に駆けつけました。
亡くなって棺(ひつぎ)の中に横たわっていた祖母は、生きていたときのようにおだやかな顔でした。
私は、もうあのやさしい祖母には会えなくなったんだと思うと悲しく寂しく思い、泣いてしまいました。
葬儀が終わり、親戚一同で火葬場へ向かいました。
最後の別れをすませたあと、祖母は焼かれました。
焼かれた祖母は骨だけになっていました。
あのおだやかな祖母の表情を形づくっていた肉体はどこにもなかったのです。
あるのはただの骨だけでした。
そのとき、忘れかけていた「死んだらどうなるのだろう」という不安が再び込み上げてきました。
そして「死んだら何もなくなる」と言われたことも思い出されました。
「死んだら何もなくなる」は本当だったんだと思ってしまったのです。
どうしようもなく不安になり、今度は恐ろしくて泣いてしまいました。
この祖母の死をきっかけとして、死んでしまうことへの不安と恐れからいろいろな宗教や哲学の本を読みあさっていくようになりました。
ですが、どの本もしっくりきませんでした。
心から信頼を寄せることができなかったからです。
親鸞一人(いちにん)がためなり
高校に進学し、ある国語の先生と親しくなりました。
真宗のご門徒です。
その先生から『歎異抄』を勧められました。
書店で文庫本を買い求め、つたない読解力で、なんとか読み進めました。
「弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬる」(註釈版聖典847頁)などの文章が心に残りながら、読み進めました。
「後序(ごじょ)」と呼ばれるところで、ある文章が眼に飛び込んできました。
それは「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(同853頁)という文章です。
阿弥陀さまは長い長い時間をかけて私たちを極楽浄土に救う方法を考えられました。
その長い長い時間をかけ思いをめぐらして建てられた本願、それが親鸞聖人一人を救うためのものでした。
そう説かれてあったのです。
私はその部分を思わず自分に置き換えて読んでしまいました。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに良彦一人がためなりけり」と。
阿弥陀さまは、お浄土へ救おうとする願いを、他の誰のためでもなく、今ここにいる私に対してはたらきかけて下さっている。
そのことを知らされました。
死んだら何もなくなるんじゃない。
阿弥陀さまは、私たちが往生させていただく世界、お浄土をご用意下さっている。
私たちはそのお浄土に往生させていただく。
そのようにうなずかせていただいたのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |