新年のおさとし みんなの法話
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新年のおさとし
本願寺新報2003(平成15)年1月20日号掲載
大阪・光蓮寺衆徒 稲城 蓮恵(いなぎ れんえ)
道徳(どうとく)はいくつになった
新年も早三週間が過ぎようとしています。
お正月を迎えると、いつも思い浮かぶ聖典の言葉があります。
それは『蓮如上人御一代記聞書』の「道徳は今年でいくつになったのか。
道徳よ、念仏申しなさい。
念仏といっても自力と他力とがある...」(『同』現代語版3頁)という言葉です。
これは明応二年(一四九三)の元日、蓮如上人が門弟の道徳さんに向かって語られたと伝えられている言葉です。
ここで注意しなければならないのは、「念仏といっても自力と他力とがある」というところです。
道徳さんは、新年のご挨拶にうかがったのに、蓮如上人という方はいきなり、お念仏を申しなさい、しかも、自力のお念仏ではなくて、他力のお念仏を...と。
お正月早々、なんと、きびしいことを言われるお方であろうとの印象を受けます。
しかし、大切なことであればこそお正月早々、引き締まった年頭の挨拶の時におっしゃったのでしょう。
昨年、新聞広告で誤用され話題となった浄土真宗の大切な言葉「他力」。
蓮如上人は道徳さんに、この他力を「他の力」とよみ、阿弥陀如来の本願のはたらきという意味だとお説きになりました。
そのはたらきから申す念仏を「他力の念仏」といわれるのです。
これに対し、誤りである「自力の念仏」というのは、お念仏を自分の能力で称えられるものと誤解して、念仏を数多く称え、その功徳によって仏が救って下さるように思いこんで称える念仏であると誡(いまし)められたのです。
すなわち、阿弥陀如来の大いなるはたらきが至り届いてお念仏となって下さったにもかかわらず、私の能力、私が先手であるという認識で称えるのが自力の念仏なのです。
家内安全に商売繁盛?
お正月三が日が終わると、四日のテレビで必ず流されるニュースがあります。
それは、初詣番付の発表です。
そして、その番付の中に本願寺は見あたりません。
では、番付に登場する神社仏閣は、なぜ番付に登場するような多くの人が訪れるのでしょうか。
ニュースで放映されている映像を見ていると、大きく「家内安全」「合格祈願」「商売繁盛」などと赤い太字で書かれた看板が門前を彩っています。
多くの人が初詣をして、これらの看板に掲げられていることを祈願しているのでしょう。
そこで求められる幸せは、一般的には当たり前のことと看過しがちですが、浄土真宗のみ教えからみると、その内容をあらためて考えねばなりません。
それは、これらの祈願の根本にあるのは、自己中心的な欲望にほかならないからです。
例えば、健康でありたいとの祈りも、つき詰めれば、隣の家はどうでも良いから自分だけ健康でいたいということです。
入学試験に合格すれば嬉しいですが、それも不合格の人の悲しみを踏み台にした幸福への祈りと他人の不幸が前提となってしまいます。
これが祈願の正体です。
そこまで言わないにしても、自分に都合のいい欲望だけを祈願によって満たしてくれるのが神仏なのでしょうか。
親鸞聖人は現世の祈りを否定されて、『高僧和讃』に、
<pclass="cap2">仏号(ぶつごう)むねと修(しゅ)すれども
現世(げんぜ)をいのる行者(ぎょうじゃ)をば
これも雑修(ざつしゅ)となづけてぞ
千中無一(せんちゅうむいち)ときらはるる
(註釈版聖典590頁)
と自力念仏の一つとして誡められています。
このご和讃の本文の左側に親鸞聖人が施された註釈の「ご左訓」を通して、このご和讃を味わいますと、たとい千人がお念仏していても、神社仏閣などで現世を祈るならば、お念仏を申していても、それは自力の念仏だからお浄土に生まれることはかなわない、ということをおっしゃられています。
疑いの蓋(ふた)をまじえない
阿弥陀さまのお誓いの本質は、生死に迷っているすべてのものをお浄土へ救うという願いです。
阿弥陀さまの願いには、自己中心性のかけらもありません。
その願いをふたごころなくすっと受け入れる。
その受け入れた心を真実信心といい、聖人は真実信心を疑蓋無雑(ぎがいむぞう)(疑いの蓋をまじえない)と示されます。
常に、私が阿弥陀さまを思う前から私の迷いを見据えて、先手で私に常にはたらいて下さり、あとは私が受けいれるばかりです。
阿弥陀さまのはたらきは、赤ん坊が飲む母乳によくたとえられます。
赤ん坊は、野菜やお米、お肉などのめぐみを、そのまま食べることは出来ません。
しかし、母乳だとそのまま飲むことができます。
母乳は味付けもせず、レンジで温めることも要りません。
そして、母親は母乳を一滴も口にせず赤ん坊に与えます。
阿弥陀さまは、この私を救うことができないなら阿弥陀さま自身も仏とはならないと、はかりしれない過去から修行を重ねられ、私に常にはたらき続ける南無阿弥陀仏として成就されたのです。
私たちは、さとりを目の前にしてもそれがさとりとは味わえません。
でも、さとりは本願のお念仏となり、私のところに至り届いて下さっています。
母乳のように何も加えることなく何も付け足すこともなく、お念仏のままいただいていきなさいと、親鸞聖人や蓮如上人のおさとしが聖典から聞こえます。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |