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成人の日の若者たち みんなの法話

提供: Book


成人の日の若者たち
本願寺新報2002(平成14)年1月1日号掲載
山月 雅彦(さんげつ がげん)布教使(滋賀)
今から20年後には
成人の日の夕刻、テレビのスイッチを入れると、NHKのスタジオに数十人の青年男女が集まっていました。
番組の内容は、次代をになう若者たちに、いくつかの項目をあげて、その考えを聴こうというものでした。

いまから二十年後には、こんなことができるかもしれない、あんなこともできるかも知れない。
もし実現したとして、「賛成だ」という人は「あり」と書いた札をあげてください。
たとえできるようになっても、そんなことは「すべきでない」と思う人は、「なし」の方をあげてください、

というわけです。

はじめにスタッフの一人が、身体のあちこちに紙切れのようなものをくっつけて現れました。
よく見ると、一つひとつに胃や腸、心臓、肝臓と、さまざまな臓器の絵が描かれているではありませんか。

私の心臓はブタの心臓を移植しました。
肝臓は牛のをもらいました。
肺は......。

さてみなさん、現在の移植医療で臓器の提供者は人間に限られています。
でも将来、他の生き物の臓器も自由に移植できるようになるかもしれません。
もしそうなったとして、あなたは、それに賛成しますか? それとも反対ですか?

という問いかけでした。
答は、「あり」が少し多かったように思います。
意見をきくと、

いまの臓器移植は、脳死の判定をはじめ、提供者に身近な人々の心のケアもあって難しい問題が残ります。
その点、他の動物なら問題はありません。
もともと私たちは、牛やブタを食べて生きているのですから。

というのが、おおかたの賛成意見であり代表的なものでしょうか。
なかには、

<pclass="cap2">よい臓器を得るために、移植専用の動物を飼育するのもいいのでは。

などという意見もあったようです。

ところが「なし」の側から、一人の女性がスックと立ち上がりました。

私は農業をしています。
毎日、田畑に出て仕事をしていると、土の中にも外にも、たくさんの生き物がいます。
土をいじりながら、「アー、地球はやっぱり人間だけのものじゃないんだ。
おたがいが共に生きている〝いのち〟なんだ」ということを、しみじみと感じるんです。
だから他の動物の命なら、どんどん臓器を取ればいい、などという考えには反対です。

ずいぶん迫力がありました。
スタジオ中がシュンとしてしまいました。
実感のこもった、文字どおり地に着いた言葉でした。
昨年の成人式は、何かにつけあまり芳(かんば)しくない印象を世間に与えたようです。
でも心配はいらないな、と思わせる頼もしい発言でした。

決して見捨てはしない
ところで、児童虐待(ぎゃくたい)や子育ての放棄など、最近の子どもたちをめぐる教育環境は、まことに厳しいものがあります。

これから二十年、誕生から三歳児までの子どもたちは、専門家の手によって育てようという時代が来るかもしれません。
赤ちゃんが生まれると、いったん幼児教育の専門施設に預けてしまう。
そして、できあがった三歳児を親の手に引取り、育てる。
こうなるかも知れませんね。
あなたがもし親なら、わが子をそこに預けますか? それとも、そんなことは反対ですか?

という問いがありました。
夫妻ともに法律事務所に勤めるという、ある女性の言葉は、

私たちに、まだ子どもはいません。
でもそんな施設ができたら、生まれた子どもはぜひ預けたいと思います。
弁護士の世界も、子育てで仕事を休むのはいつも女性です。
せっかく弁護士になったのに辞(や)めてしまうのも、やはり女性の方なのです。

というものでした。
「男女共同参画社会」と言われながら、まだまだという世間の現実を反映した切実な発言です。

しかし、絶対反対という声もありました。

あるとき、私の父親がこんなことを言ったのです。
「昔から世間では、親孝行をせよと言うけれど、おれは、子どもというものは三歳までに十分、親孝行をしているものだと思う。
おまえが生まれた時はやっと親というものになれたのだ、と本当に嬉(うれ)しかった。
いろいろ心配もしたけれど、それ以上に、たくさんの喜びを味わえた。

これからおまえが、どんな道を歩み、どんな人間になっていくかはわからないが、両親だけは決しておまえを見捨てることはないからな。
それだけは忘れないでくれ」と言ってくれたんです。
その何より大切な、三歳までの親と子のふれあいがないなんて考えられません。
私は絶対反対です。

と言いながら、その青年は、感極まったのか途中から涙声になってしまいました。

なんと、「あり」の札をあげたはずの賛成派からも、拍手が起こったのです。

「決して見捨てはしない」というひと言は、親が子の親であり続けようとする限り、なくてはならぬ心ではないでしょうか。
言いかえれば、そのひと言さえあれば、いかなるときも子の親であり得るのです。

どのような存在をも見捨てられない、宇宙的な包容力をそなえた仏さまを「阿弥陀仏」と申します。
あのバーミヤンの大仏さまを破壊したタリバンの兵士も、日々、煩悩に翻弄(ほんろう)され続けの私も、阿弥陀さまのお心からは、共にいのちをかけて救わねばおれない「仏の子」です。

大乗仏教、そしてお念仏とは、そのような教えなのです


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/