愚かになって卒業 みんなの法話
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愚かになって卒業
本願寺新報2002(平成14)年4月10日号掲載
中央仏教学院学校教育部長 白川 晴顕(しらかわ はるあき)
年齢や学歴 経歴も多様
春四月、卒業式も終わり、入学の季節がやってまいりました。
私が勤務する中央仏教学院は、浄土真宗本願寺派の僧侶を養成する専門学校です。
学院でも三月十五日に二百二十余名の人たちを送る卒業式が行われました。
この学院には、一般の学校ではあまり見受けられない大きな特色があります。
その一つは学生の年令の幅が広いということです。
二十歳前後の学生に混じって五十歳、六十歳代の人が毎年十数名は入学されます。
八十年の学院の歴史の中で、最高齢者は平成二年に入学された七十六歳の男性の方でしたが、その記録は三年前に七十八歳の男性によって塗り替えられました。
このように、六十歳以上の方が十代の若者と机を並べて親鸞聖人の教えを学んでいくのが学院です。
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学歴や経歴も一様ではありません。
中学校卒業から大学院博士課程修了までの学歴に加えて、営業マン、建築技師、小・中学校の先生や校長経歴者、脳神経外科や眼科のお医者さん、現役の住職や坊守さん、またNHKのプロデューサーという経歴をもった方が入学されたこともありました。
年々、そうした社会経験を積んだ人の入学割合が増えつつあります。
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そして、もう一つの特色として、一般の学校では、中学校、高校、大学にしても、その学校に入学して、さまざまな知識を修得し、卒業するときには、その多くが入学したときよりも賢くなって卒業していきます。
しかし、親鸞聖人の教えを学ぶ学院の場合は、それとは逆であって、世間である程度認められて賢くなったと自負している人が入学し、卒業する時にはむしろ愚かになって卒業していくというのが、本来の卒業ではないかと思っています。
聖人の教えを学ぶ、あるいは聞くということは、結局、自分の愚かさを知らされるということでもあります。
人間には五つの欲望
ところで、『華厳経』というお経には、凡夫の欲望が飲食(おんじき)欲、睡眠(すいめん)欲、色(しき)欲、財欲、名(みょう)欲の五つに分けて紹介されています。
すなわち、喉が渇けば冷たいビールが飲みたい、お腹が空(す)けば美味しいものが食べたいという飲食欲。
お腹が一杯になれば続いて起こる欲望でもありますが、眠りたいという睡眠欲。
異性を見て邪心を起こす色欲。
また、財産を殖(ふ)やしたいという財欲、財産もお金だけとは限りません。
流行の服が、新車が欲しい、これも財欲です。
さらに地位・名誉が高くなっていくことに憧れ、それを求める名欲も止むことはありません。
なかでも飲食欲、睡眠欲は、「いつまでも元気で生きたい」という欲望のあらわれであり、要約すれば生命欲と呼ぶことができるでしょう。
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では、生命欲、色欲、財欲、名欲という四つに大別した欲望について、自分にとって平素どれが最も強い欲望であるかと問われれば、誰もが「いつまでも元気で生きたい」という生命欲をあげるはずです。
そうすると、私たちは常日頃、「生きたい、生きたい」という欲望の色メガネをかけて物事を眺めているということになります。
そこにはおのずと優劣や善悪の見方が生じてきます。
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例えば、「生きたい」という欲望の色メガネをかけて、健康と病気を眺めたならば、健康は優れ病気は劣っている、健康は善であり病気は悪であるという具合です。
極端な言い方をすれば、生きることと死ぬこと、この二つを同じく「生きたい」という色メガネをかけて眺めたならば、当然のことながら生きることはすばらしいことであり、それに対して死ぬことはダメであるという見方になってしまいます。
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しかし、これらは欲望という色メガネをかけたものの見方であって、真実ありのままの、正しいものの見方とはいえません。
仮に色メガネをはずして物事を眺めることができたとしたならば、「生きたい」という色メガネがないわけですから、どちらにも優劣や善悪はないはずです。
欲望の色メガネをかけて、優劣や善悪の価値判断をし損得勘定ばかりしているのが私たちの平素のものの見方であり、そのものさしが、いかに間違いだらけであるかということがわかります。
そのままで素晴らしい
阿弥陀さまは、私たちとは異なり、欲望の色メガネをかけた見方をされません。
健康も病気も、生きることも死ぬことも、優劣や善悪はない、どちらも同じこと、そのままで素晴らしいことであると、ありのままに物事を見ていかれるのが阿弥陀さまです。
したがって、『教行信証』「信文類」に、「おほよそ大信海(だいしんかい)を案ずれば、貴賤緇素(きせんしそ)を簡(えら)ばず、男女(なんにょ)・老少(ろうしょう)をいはず、造罪(ぞうざい)の多少を問はず、修行の久近(くごん)を論ぜず」(註釈版聖典245頁)と述べられるように、その救いは地位とか僧俗、男女や老少、あるいは罪の多少も修行の久近もまったく区別されることなく、あらゆる人びとに等しく注がれているのです。
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賢くなったということを誇り、そして、そのような自分自身をあてにする心に阿弥陀さまにすべてをまかせる心が生じる余地はありません。
あてにしていた自分自身があてにならない、どうしようもない愚かな存在であったと知らせてくださるのが、阿弥陀さまの見方に適(かな)った親鸞聖人の教えです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |