操作

悲しみをご縁として みんなの法話

提供: Book


悲しみをご縁として
本願寺新報2006(平成18)年8月10日号掲載
布教使 藤井 邦麿(ふじい くにまろ)
なつかしいふるさとへ

お盆は正月と並んで"民族の大移動"の季節となります。
特に日頃都会で生活している人にとっては、帰省することが何よりも待ち遠しいことでしょう。

ご先祖のお墓参りをしたい、幼い時に遊んだ山、川、海などの自然の中に身を置きたい、友人との旧交を温めたいなど、いろんな思いがあることでしょう。

しかし、一番の楽しみは、親や兄弟、親せきの人たちとの再会でしょう。
そのためには厳しい暑さ、交通の混雑や疲れもいといません。
お金にもかえられないものです。

「ただいま!」

「おかえりなさい!」

それだけでもう十分です。
顔さえ見れば落ち着く世界です。
短い会話の中にも、すべてが通じ合う世界です。

日頃は当たり前と思いがちな「家族」ですが、お盆はそんな家族一人ひとりのことを、あらためて思う季節でもありましょう。

日本語通じありがたい
先日のこと、あるご門徒のおじいちゃんが亡くなりました。
その満中陰(四十九日)のご法要の時でした。

おばあちゃんが私に向かって「ごいんげ(住職)さん、わが家はありがたいです。
家族のものが全員、日本語が通じるのです」と言われました。

最初はその言葉の意味がわかりませんでした。
そのご家族には外国の方がいるわけではありません。
一番小さなお孫さんは幼稚園児です。
でも、しばらくしてなるほどと思いました。

その家族はおばあちゃん、子どもさん夫婦、そしてお孫さん四人の七人家族です。
それぞれの世代や立場が違っても、会話が成り立ち、お互いが意見を十分に聞き合える人間関係が出来上がっているのです。
言いっぱなしや、相手に背を向けたりすることのないあたたかい家族です。
お仏壇を中心とした日暮らしをされています。

それとは、反対に、同じ屋根の下で生活して、毎日顔を合わせていても、心が通じ合えない夫婦や親子が年々増加している昨今ではないでしょうか。

家族そろい尊い100日間
先日、ある研修会で二日間にわたりお茶や食事などのお世話をしていただいた女性が、次のようなことを話してくれました。
六年前にご主人が亡くなった時のことです。

百か日のご法事まで一日も欠かさず、お仏壇の前でおつとめをされたそうです。
その場には、長女夫婦とその孫が二人、そして子どもさん三人と、当人を合わせて八人が夕方そろってお参りです。

「子供たちが近所に住居を構えていましたから」と言われていましたが、一人のお子さんは仕事を終えて車で三十分かけてのお参りです。

おつとめは正信偈と御文章の拝読です。
その当時、幼稚園児であったお孫さんは、最後には御文章を暗記してしまいました。

幼稚園の先生が、お宅のお子さんが時々「まつだいむちのざいけしじゅうのなんにょたらんともがらは(末代無智の在家止住の男女たらんともがらは)...」(註釈版聖典・1189ページ)と口にしている言葉は何のことですか?と尋ねられたそうです。

「夫との死別で悲しい中にも、みんながそろってお参りができた尊い百日間でした」と笑顔いっぱいで語ってくれました。

現在は、毎月のご命日に、ご住職と一緒に全員そろってお参りをし、語らいの場を持っておられるそうです。

浄土真宗では、お盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))のことを「歓喜会(かんぎえ)」とも言います。
阿弥陀さまのみ教えを聞くこと一つで、間違いなくお浄土に生まれ仏になる身に定まる、そのよろこびからつとめるご法要です。
したがって、亡くなった人への追善供養のためにお経を読むのではありません。

親鸞聖人は「『歓』(かん」)は身をよろこばしむるなり、『喜(き)』はこころによろこばしむるなり」(同678ページ)と解釈されています。
それは人間の欲望(煩悩)を満足させるようなよろこびではありません。
真実のみ教えに出遭(あ)った、心身のよろこびなのです。

人生は出会いと別れが織りなすものであるといわれます。
大切な人、かけがえのない人との悲しいお別れをご縁として、仏法に出遇うことが何よりも亡き人の思いを生かしていくことなのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/