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念仏をいただいて生死を超えるよろこびを知る

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人生にはいろいろなよろこびがあります。そして、ある意味では人はよろこびを探し求める生きものであるとも言えそうであります。

 しかし、考えてみますと一般には、「喜び」という字にあてはまる、つまり「悲しみ」に対するよろこびを求めるというのが始まりではないでしょうか。

 「自分の家は○○さんの家に比べれば、ましではないか。よろこばねば」などという場合、それは、他人の家の苦しい状況とか悲しいありさまに比べて、それよりはましであるというよろこびであります。いわば他人との比較の上での満足感とでも言うべきものでしょう。そういう意味では、他人の苦しみや悲しみを同じ心、同じ事としてうけとるのではなく他人の状態をおとしめることによって自分が満足するということになってしまいます。

 念仏は、このような生き方をしている私たちのあり方を智慧のはたらきとして背中の髄まで照らし出し、しかも、それを捨てておけないで慈悲のはたらきによって抱きとり、ひるがえして、包みこんでくだされるのでありました。

 そして、人生におけるさまざまなことがらの解決を求めるならば人生そのもの、つまり生死の解決を果たすべきであるという教えが念仏の教えであります。もとより生死という言葉には一つには生と死という意味に使われます。従って生きることも死にゆくことも解決される世界をいいます。いま一つは、生死とは、迷いの時間的表現といわれるように、苦しみ悩んで生きるいのちそのものの解決という意味であります。

 ところで「生死を超える」という言葉は大変むつかしい言葉のようにうけとめられがちですが、「超える」ということは「包みきる」ということなのであります。つまり、われらの煩悩(親鸞聖人は煩は身をわずらわしむ、悩は心を悩ますと言われています)の延長上には仏はましまさないのです。つまり彼岸(超える世界)であります。言いかえれば、仏は私らの煩悩の世界を超えていられます。超えていられるということは、このわれらを包みきってくだされるということであります。

 われわれは、このような仏の願い、その願いのとおりに成就されたお念仏をいただくことによって生死が包まれてゆくのであります。従って、念仏とはまことのよろこびを恵むものであります。

 人生の根本問題を解決されるよろこびは、単なるなぐさみではありません。悲喜をよろこぶまことのよろこびであります。

 念仏をいただかれた親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と述懐されておられます。過ぎ去った順縁も逆縁も、すなわち、喜びの縁も悲しみの縁も念仏で抱きしめてまことの慶びにいのちをつくす道を示してくだされたことであります。



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。