念仏は私の心を照らし出す鏡
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笑顔で鏡を覗いたら 鏡の顔も笑ってた 怒って鏡を覗いたら 鏡の顔も怒ってた 人間も鏡のようなもの 自分が笑って向かうなら 相手も笑ってこたえよう 自分が怒って向かうなら 相手も怒ってこたえよう 「当り前のことだ」とは 実行していうことだ (『日々の糧』相愛学園) という言葉に出会いました。
思えば、み仏の教えとはものを「正しく見る」(正見)ことからはじまるといわれます。
正しくものを見るといいますとそれは科学的に正しいということでしょうか、それとも法律的に正しいということですか、またそれは道徳・倫理的に正しいということでしょうか、とたずねられることがあります。しかし、み仏の教えでは自分を中心にものを見る、つまり我執からの見解を「邪見」として徹底していましめ、自分中心、我執から解放された立場からものを見ることを「正見」つまり正しくものを見る、というのであります。つまり、ありのままにものを見るということです。言いかえれば、「当り前」のことを当り前であるとうけとめることのできる人間に成ることであります。
最初の『日々の糧』にありました「当り前のことだ」とは実行していうことだ、というのは、まさにそのことをよく顕わしていると言えます。
ところで、自分の欲望や本能が解放された立場からものを見よ、といわれても、なかなかそういかないところに私たちの問題があると言わなければなりません。
そうかといって、凡夫だから、できないものであるとなげやりになってはいのちと人生に何の意味もないことになります。
実はそのような、悲しいあり方をしているわれらのほんとうの姿を見透かして、照らし出してくださって、阿弥陀如来が、永いあいだ思惟に思惟を重ねて、どのようなものでも、つまり、すべてのものをめざめさせて仏にまでさせると、はたらきどおしの南無阿弥陀仏のお念仏となりたもうたのであります。
その意味で、念仏は私の心のどん底まで照らし出す鏡なのであります。
鏡は、私たちのかけねのないすがたを真うつしにして、ほんとうのことを知らせ、そのような私たちを必ず、めざめのいのちの完成の仏にならせるとはたらいてくだされているのがお念仏の鏡であります。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。