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念仏はわが家のきずな 御同朋への道しるべ

提供: Book

祖母の四十九日の前夜、父とたいそうな口論をしたことを覚えています。父が仏壇屋さんから聞いたお内仏のおかざりを、私が本で調べたものに直そうとしたのです。ただ直すだけならそのままだったのでしょうが、そこで私が父に、「ちゃんとしたものを学ばなければいけない」と言ったのがきっかけで、隣近所にも聞こえそうなくらいの口論になりました。父は「お前は自分が正しいといつも思っている」と、そうとうな剣幕で私に叫び、私は私で「ふだんからお勤めもしないでいてわかるわけないだろう」と言い返したものでした。翌朝、仏間に行くとお内仏のおかざりは私の言ったものになっていました。父はそのあと、自分でも本を読んで直したのでした。

 この話をすると、たいがい、「そんなことでよくケンカするね」と笑われてしまいます。「では、あなたの家ではみんながお勤めしていますか?」と問い返すと、まず誰もしていると答えません。

 かくいう我が家も、家族そろってお勤めしているかといえば、まったくそうではありません。生活パターンもバラバラで、家族がそろって食事することもなかなかありません。まして、家族そろってのお勤めなどということにはほど遠い状況です。そもそも法事の前の日に、お内仏の前で大ゲンカしているくらいです。

 正直なところ、「門徒である」家といっても、家族がみんなでお勤めしている家庭はほとんどないのではないでしょうか。

 「念仏はわが家のきずな」というのは、けっして「家内安全」や「一家和合」のご祈ではないでしょう。皆さん、「我が家はお念仏のおかげで家族みんなが仲良くしています」なんて胸を張っていえるでしょうか?

 まして、御同朋。職場の同僚でも、真宗門徒の人は大勢います。しかし、だから仲がいいかというとそう話はうまくいきません。会わずにすむに越したことはない人とだって、仕事だから会わねばなりません。

 でも、だから念仏はきずなであり、道しるべなのだと思うのです。なぜなら、念仏することで、念仏のほかはまったくバラバラな私たち自身に、はじめて気づけるのです。念仏がなければ、とりあえず表面上、波風が立たなければよしとしている人間関係が、お互い念仏申す身と、何かの拍子に思い出すと、「おなじお念仏申す身だけど、よくまあここまでお互いに理解しあっていないもんだ」と気づかされてしまうのです。

 しかも、そう気づいた翌日から仲良くなれるかといえば、けっしてそうではない。やっぱり理解しあえないことだって多いまま。だけど「よくまあここまで…」が明らかになると、自分は正しくて相手が間違っていると思い込んでいる自分に気づかされる。ホントは相手が正しいのかもしれないぞと一瞬、思い返すことも出てくる。でもすぐに、「いや、やっぱり俺が正しい」と我が出てくる。結局、みんな仲が良いなんて状況には、家族だろうが同朋だろうがそうそうなれっこない。そのかわり、そうなれない自分が見えてくる。念仏以外、なにも同じものを持っていない私たちなんだという、ありのままが見えてくる。

 私はそこに、念仏がきずなであり、道しるべである事実を感じるのです。


渡辺 純雄 1974年生まれ。新潟県在住。 三条教区願敬寺門徒。病院職員。



東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。