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平和を願って みんなの法話

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平和を願って
本願寺新報2004(平成16)年2月20日号掲載
布教使 長岡 裕之(ながおか ひろゆき)
正義と正義が人を殺す

二十世紀は戦争の時代でした。
新しい世紀こそ平和な時代にしたい、という願いの中に二十一世紀を迎えました。
しかしながら、無惨にもその願いが砕かれた二〇〇一年の米国への同時多発テロと、それに対する米国のアフガン攻撃、そして昨年の米国などによるイラク攻撃でした。

さらには今、日本の自衛隊がイラクに派遣され武力衝突の危機が目前です。

米国大統領は正義の戦いと叫び、アフガニスタンとイラクを攻撃します。
迎え撃つ側もイスラムの聖戦と位置付け、死をも厭わずゲリラ戦・自爆攻撃で迎え撃ちました。

どちらも我こそ正義と主張します。
正義の下に尊い命が奪われるのが戦争です。
ゆえに愚かな行為という以外ありません。
正義を立てるがゆえに、自己の主張しか見えない人間の愚かさがあります。
正義と正義の戦いが人を殺し、破滅につながってゆくのです。

ここで言う正義とはいったい何なのでしょうか。

イギリスの著名な歴史学者A・トインビー博士は「平和の原理は東洋の思想にある」と言われました。
東洋の思想とは仏陀釈尊の教え「仏教」です。

悪人の自覚から平和が
「無我」を説かれたお釈迦さまは「我」に執着することの無意味さを説かれました。
我の立場・己の主張に執着するがゆえに、争いのもととなるのです。
正義も執らわれると、もう正義ではなくなるということです。

自己を正義化し、他を排除し、命を奪うのが平和への道ではありません。
阿弥陀さまの智慧に照らされ、他を責めてやまないという己の愚かさに頭を垂れて、罪を作りつづける己であったことに慚愧することが、真の平和への第一歩です。

親鸞聖人は、阿弥陀さまに照らされたわが身を罪悪深重と見つめられました。
煩悩に振り回され、罪を作りつづける私であったということです。
ここに「悪人」の自覚が生まれます。
この「悪人」の自覚こそ、我に正義を立てることのない平和の原理です。

念仏者であった源佐さんは「世間さまにこらえてもろうてます」と言ったそうです。

「こらえてやる」生き方は他を責め、ついには命を奪いかねません。
「こらえてもろうてます」では、争いようがありません。
この言葉こそ、自己を正義化せず、相手を責めないで教えに生きた念仏者の姿です。

兵士や武器は用事なし
『大無量寿経』には「兵戈(ひょうが)無用」(兵士と武器に用事はない)とあります。
「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。
そのため世の中は平和に治まり...国は豊かになり、民衆は平穏に暮し、武器をとって争うこともなくなる」(現代語版『浄土三部経』135頁)

仏教徒として、平和に向けて何ができるのかと言えば、まず、仏の教えをひろめることです。
そのことが平和につながります。

親鸞聖人はお手紙の中に、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」(註釈版聖典784頁)と、念仏者としての願いを語られました。
世のなかの安穏(平和)を願うことと、仏法のひろまりを願うという二つのことを一体に見ておられたのです。

次に大事なことがあります。

『歎異抄』には「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(同844頁)とあります。
親鸞聖人は、人間は縁(条件)が整うと何をしでかすかわからない存在だと見抜かれました。
ゆえに、罪悪深重のわが身であることを深く肝に銘じ、縁が整わないようにするのも平和への歩みです。

イラクへの自衛隊派遣は、戦争状態にある国に武器を持った軍隊を送り込み、殺しあう縁を作り出すことになります。

このような縁が整いそうな状況に反対し、許さないのも私たち仏教徒の出来る事です。

<pclass="cap2">仏教徒
われらしずかに
声あげん
ブッダの言葉
「兵戈無用」と
     (朝日歌壇)



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/