川にそって岸がある みんなの法話
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川にそって岸がある
本願寺新報2001(平成13)年3月20日号掲載
鈴木 善隆(すずき ぜんりゅう)(布教使)
流転の浮き草人生
え.秋元 裕美子
彼岸桜のつぼみもようやく膨(ふく)らんできましたが、昔から〝花は三月
弥生(やよい)の頃〟とも言われるように、やはり、花は咲いて散るよりも、つぼみの頃の方が夢があっていいようです。
人生もできれば、つぼみのように夢と希望を膨らませて、いつまでも春の若さで生きていたいと、誰しもが願うことでありましょう。
だけど、どんなに願ってみても〝散る桜、残る桜も散る桜〟とあるごとく、花は間違いなく咲いて散るように、私たちの人生も、必ずや散るときが来るのです。
いや、気付いてみれば結局はひと花も咲かせないままに、ただいたずらに日を過ごし、ただむなしく一生を終えるのであろうか......このことを中国の善導大師は、
<pstyle="text-indent:20;margin-top:5;margin-bottom:5"align="left">曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)し、つねに流転して、出離(しゅつり)の縁あることなし
(註釈版聖典七祖篇457頁)
と仰せられました。
すなわち、私たちがこの世にある限りは、その時その刹那(せつな)に流され、自らの情に流され、社会からも流され、はたして、この世のどこに、ほんとうに安らぐ世界があろうか、まさに翻弄(ほんろう)と流転(るてん)の浮き草人生だったのか、と口から漏れるのはため息と嘆きの言葉ばかりでありました。
さあ!ここにこそお彼岸の「到彼岸」たる所以(ゆえん)がありました。
『仏説無量寿経』に
<pclass="cap2">慧眼見真能度(えげんけんしんのうど)彼岸
(原典版聖典64頁)
とあります。
阿弥陀如来は、智慧の眼(まなこ)で人間の真相を見抜かれ、われら人間がどんなに頑張っても「到彼岸」は不可能と知らされ、その上で「能度彼岸」。
阿弥陀如来のお慈悲のはたらきをもって、彼(か)の岸、お浄土に済度いたしますと、『南無阿弥陀仏』のお名号にこめて喚(よ)びたもうのでありました。
このことを東井義雄先生の言葉に伺いながら、しみじみ味わうことであります。
<pclass="cap2">川に沿って岸がある
私に沿って本願がある
いつまでも埒(らち)のあかない
私に沿って本願がある
そうです。
淀川が大阪を流れていて淀川の岸が東京にあるなんて、そんなバカなことはありません。
川に沿って岸があるのです。
川と川岸は離れていないのです。
同じように、私に沿って阿弥陀如来のご本願があるのです。
実は、本願念仏にこめられたお浄土の岸(彼岸)は、われら常没流転の人生(此岸)と離ればなれではありませんでした。
特にいつまでも埒のあかない私にそって、いつまでも浮き草生活にもがきながら喘(あえ)いでいる私にそって、「若不生者不取正覚(にゃくふしょうじゃふしゅしょうがく)」のご本願は『南無阿弥陀仏』のお喚び声となって、現にはたらいてくださるのでした。
〝如来の子〟として
川は驚くほど変化に富んでいます。
速い流れもあれば遅い流れもあります。
澄んだ水もあればどんより濁った水もあります。
硬い岩石に川底をうがつ流れもあれば、柔らかい堆(たい)積物を侵食して流れるものもあります。
実のところ二つと同じ川は無いのです。
その千差万別なる一つひとつの川が、川として存在するには、そこを流れる水があり流れを支える川岸があるからです。
もしも水が流れていなかったら川ではありません。
もしも川岸の支えがなかったら川は存在しません。
常没流転の現実ゆえに阿弥陀如来のお慈悲がはたらきたもうのです。
『南無阿弥陀仏』のぬくもりがないならば、苦悩を場として生きる私が「如来の子」として生きる意味を失うのです。
親鸞聖人は
<pclass="cap2">私は太陽ではありませんが、太陽のぬくもりはこの身いっぱいにいただいております。
さあ!御同朋よ、ごいっしょに暖まりましょう―
と横に横に『南無阿弥陀仏』のぬくもりを伝えてくださいました。
私たち門信徒や僧侶も、いままでご縁が有ろうが無かろうが、「ともに聞き語りましょう」「お慈悲はぬくいですね」と、苦悩を場とする現実に〝人間〟として積極的に融け込んでいきたいものです。
〝現場の声〟を反映
今まさに春とはいえ、社会の現実は冷え切っています。
それよりもなお寒々しいのは、念仏するものだけが仲間とする〝閉じられたお寺〟ではないでしょうか。
<pclass="cap2">社会にうずまく諸問題の中で、苦しんでいようが、悲しんでいようが、悩んでいようが、あるいは、いのちの尊厳性が失われていこうが、環境がどんどん破壊されていこうが、ご近所の家庭が崩壊の危機にあろうが、そんなことはまったくお構いなしで、念仏する者だけで仲良くしましょうでは、あまりにも冷たいよ!ご院さん―
と聞こえてくるようです。
これからの寺院活動の基本とは何か、それについて「現場の声」をもっと反映したいものですね。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |