届けられた願い みんなの法話
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届けられた願い
本願寺新報2003(平成15)年8月20日号掲載
本山・布教研究専従職 菅 知尚(かん ちしょう)
何でこんな物を送る?
私は今、広島の実家を離れて京都で一人暮らしをしています。
こうした生活を送っていると、実家から届けられる宅配便が本当にありがたく感じられます。
ただ、時折、「何でこんな物を送ってくるの?」と言いたくなるような小包が届くのです。
私がまだ学生の頃の話です。
いつものように実家からの小包を開けてみると、アンパンが十個だけ入っていました。
不思議に思った私は母に電話をかけてみました。
すると「仏教婦人会の方たちにお出ししたアンパンが余ったから...」とのことでした。
その時はとりあえず納得したのですが、その日から三日間、私の朝食と夜食はアンパンになってしまいました。
いくら美味しいアンパンでも食べ続けると飽き飽きしてくるものです。
私は無性に腹立たしくなりました。
今でも鮮明に覚えていますが、そのアンパンは「高級つぶあん」と書かれた、栗の入った百円のアンパンでした。
私には、「百円のアンパン十個で千円、その送り賃って一体いくら...?」という何ともやるせない気持ちが込み上げてきたのです。
広島から京都までアンパン十個を送ろうとすると、千円以上かかります。
何だか納得できなくなった私は、思わず、「要る物がある時は連絡するから」と電話をかけました。
母は「わかった、わかった」と言っていましたが、それでも相変わらず「何で?」と言いたくなる小包が定期的に届きます。
そうすると、私はまた電話をかける。
私には、何度も同じことを繰り返す母の気持ちがまったくわかりませんでした。
そんな中、先日、お参りにうかがったお宅のご主人から、小学生の息子さんの話を聞かせていただきました。
父親ゆうのはつまらん
その息子さんは学校から帰ってくるなり、「ただいま」ではなく「おかあちゃん」と言うそうです。
ご主人は続けてこのようにおっしゃいました。
「父親ゆうもんは、ホンマにつまらんもんですわ。
母親がおらん時も『おかあちゃん!』とゆうて帰ってくるんです。
ワシは、いつ、『おとうちゃん』ゆうて帰ってきてくれるかと心待ちにしとるんです」
ご主人は「父親はつまらん」と繰り返されていましたが、満面の笑みを浮かべて、喜びいっぱいの表情でお話しになっておられました。
私は、正直、頭を殴られたような気がしました。
息子さんは、目の前にお母さんが居なくても、自分のことを想っていてくれるお母さんの愛情をしっかり受けとめていたのです。
だから、自然と「おかあちゃん」と呼んでしまうのでしょう。
当の私はといいますと、用事がある時にしか親の方を向いていません。
けれども、背を向けている私にも、ちゃんと親の想いは届いてくれていたんですね。
アンパン十個の小包は、わずか一キロ余りです。
けれども、その小包には、秤(はかり)にかけてもかけても量れないほどの、私を心配してくれる親の想いが込められていたのです。
大いなる安心の中で
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」のお念仏をいただくということは、「必ず救う、われにまかせよ」という阿弥陀さまの願いが、この私に届けられていることだとお示しになりました。
阿弥陀さまは私たち一人ひとりのいのちを第一にご心配下さり、そのいのちは引き受けた、安心してまかせよと願い続けておられます。
背を向け、背き続ける私だからこそ、阿弥陀さまは放ってはおけないと喚(よ)び続けておられるのです。
そのお心が、今、この私に「南無阿弥陀仏」となって至り届いて下さっています。
「南無阿弥陀仏」の六字は、この私のいのちを心配して下さる、大きな大きな阿弥陀さまのお心に満ちあふれています。
そのお心を聞かせていただくところに、大いなる安心の中で今ここを力強く歩んでいける、私たちの本当の生き方が恵まれるのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |