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宇宙の片隅に大きなはたらき みんなの法話

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宇宙の片隅に大きなはたらき
本願寺新報2007(平成19)年8月20日号掲載
滋賀・誓敬寺住職 山上 證道(やまかみ しょうどう)
じっくりと時間をかけて

近年、IT機器をはじめさまざまな技術革新で生活が便利になり効率よく仕事ができるようになりました。
この原稿も電子メールで送れば郵送より二日ほど長く原稿を練ることができる・・・はずです。

しかし、便利になった結果、恵まれた時間的余裕を、私たちは本当に大切なことに使っているでしょうか。
目先のことばかりに心を奪われている私自身の毎日をふり返ると、とても胸を張って答えることはできません。

古代のインドやギリシャで哲人たちが人間の本質について熟慮を重ね、人類に普遍的な思想をつむぎ出したことを思いますと、じっくりと時間をかけて考えることが、人間にとっていかに重要であるかがわかります。

だからこそ、私たち浄土真宗では、仏事・法要はお世話になった方々のご恩に感謝させていただくとともに、自分自身の生き方を、お念仏に照らしてじっくりと考えさせていただく機会であるといただきます。
そのことで「いのち」という大切なものの本質が自(おの)ずと見えてくるからです。


17代遡(さかのぼ)ると26万人の命
子どもの頃、自坊のご法座のたびに耳にした「礼讃文(らいさんもん)」。
その最初「人身(じんしん)受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く」の部分を子ども心にそらんじて意味もわからぬままに口ずさんだものでした。
感性豊かな方なら、若くしてこのご文の意味する深い内容を理解されたでしょうが、愚鈍な私は恥ずかしながら老齢期になるまで深く味わうことができずにおりました。

もちろん、若い頃、テレビの映像などで見る生命の神秘に驚嘆し、人間の生命の不思議に圧倒された経験はたびたびありましたが、それは「いのち」を人間の生命として客観的に捉えているだけで、自分の中にあるこの「いのち」として見ることができなかった、と今にして思われます。

かねがね私は十七代目の住職と聞かされておりましたので、私の「いのち」の源を十七代遡(さかのぼ)ってみると何人の方々から「いのち」をいただいていたことになるのか、とふと思って計算してみました。
父母で二人、祖父母を入れると六人、曾(そう)祖父母を入れると十四人、といった具合に計算して十七代遡って単純に加算しますと、何と二十六万人余という数になります。

実際には、それらの膨大な「いのち」も複雑に絡み合って編み目のように広がっているわけですが、とりあえず単純に考えて、この二十六万人余の「いのち」のどれ一つ欠けても私は生を受けることができなかったわけです。
その意味では最も身近な存在の父母もそれ以外の方々も、私が「いのち」をたまわったことに関しては全(まった)く等しいご恩をいただいたことを今さらながら知らされます。

私を支える無数のお陰
また、私がこの世に生を受けて以来今に至るまで、どれだけの人々が、また、どれだけのものが一瞬一瞬この私の「いのち」を支えてくださったことでしょうか。
さらに思いを馳(は)せますと、私に「いのち」をくださった膨大な数の方々も、おのおのが無数の人やものに支えられていたわけで、それらの無数の人やもののお陰で今の私の「いのち」があることに思い至ります。

ありとあらゆるものの繋(つな)がりの中で、あらゆるものに支えられて私が今ここにおり、また、私の気付かないうちにこの私も多くの人々やものの支えとならせていただくことを知らされます。

『歎異抄』の「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返(いっぺん)にても念仏申したること、いまだ候はず。
そのゆゑは、一切の有情(うじょう)はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。
いづれもいづれも、この順次生(じゅんじしょう)に仏に成りてたすけ候ふべきなり」(註釈版聖典834ページ)という親鸞聖人のお言葉はこのことであったかと、今さらながらありがたく心にしみる思いです。

便利な機器のお陰で恵まれた少しの時間の中で、このような受け難い「いのち」をいただき、聞き難い仏法を聞かせていただいて、今生かされていることにしばし思いをめぐらしますと、広大な宇宙のほんの片隅にいるこの私に、阿弥陀如来の大きなおはたらきが及んでいたことが実感され、思わず感謝のお念仏が口をついて出てくることです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/