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子どものご恩 みんなの法話

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子どものご恩
本願寺新報2002(平成14)年3月10日号掲載
吉崎 哲真(よしざき てつま)広島・西法寺住職
赤ちゃんが〝来る〟

わが家には小学2年生の娘がいます。
2年生になると、学校で「自分の名前の意味や誕生の時の様子、感想などを親に聞いてきましょう」という宿題があります。
私はそのことを8年前、子どもに「悪魔」と名付けることの是非が問題になった時に知りました。
お寺の土曜学校で「自分の名前をどう思うか」と問いかけた時、子どもたちが2年生の宿題のことを教えてくれたのです。

この2月、娘もこの宿題を持って帰ってきました。
おかげで娘が誕生した時の喜びと不安を再び味わうことができました。

私の地域のお年寄りは、子どもが誕生することを「来られる」と言います。
「お宅には赤ちゃんが来られたそうですの。
おめでとうあります」と言うのです。

娘が誕生する少し前、ある雑誌でアメリカの産婦人科の先生の一人に、赤ちゃんをとりあげる時、「ウェルカム」と言われる方があるという記事を読みました。
それで私も子どもと初めて会うときには「ウェルカム、ようこそ、よう来てくれた」と言おうと決めていました。

初めての出会いは、本当に感動しました。
しかし、すぐに名前を付けるということの重大さと不安に襲われました。
夫婦で考えてはいたのですが、実際に向かい合った時、果たしてこれでよいのか、本当にこの子にふさわしい名前なのかと悩みはじめました。
妻にもう一度よく考えたいと伝え、二週間、ギリギリまで悩みました。

というのも、土曜学校の子どもたちに自分の名前をどう思うかと聞いた時、ほとんどの子どもたちは、親がどういう願いで名付けたかを語り、気に入っていると言いましたが、一人だけ、親がいい加減に付けた名前だから嫌い、とい言った子どもがいたのです。
そんな親はいないと思いますが、名前の意味と親の願いをしっかりと考え、子どもに伝えていく責任があると痛感したからです。

必ず仏にする願い

悩んだ末に、「来られる」という言葉には、仏さまの子どもをお預かりするという意味があると聞いたことを思い出し、「弥名(みな)子」と名付けました。
阿弥陀さまのみ名を喜んで生きてくれるようにと。

願いを持って名付けたのは私ですから、その願いが成就するように行じていかなければならないのは私なのですが、責任を子どもに転じて文句ばかり言い、仏の子をお預かりしているという敬いの心も消え失(う)せて、私の子どもだと束縛の心の毎日です。

阿弥陀さまは、自らあなたの親となり、必ず仏にすると願いを起こされ、長い長い思惟(しゆい)と行を積まれて、初めて「南無阿弥陀仏」と名告(なの)られました。
そして、この私を「分陀利華(ふんだりけ)」(白蓮華(びゃくれんげ))と名付けられました。
それは、ただ名付けられたのではなく、願行(がんぎょう)具足の名号となって、この私を仏の子として育て、片時も休むことなく、止まることなく仏の世界へと導いていくという誓願でした。

如来は「慈眼(じげん)をもつて衆生を視(み)そなはすこと、平等にして一子(いっし)のごとし」(註釈版聖典184頁)とお聖教にあるように、私たち一切衆生をわが子として摂取し続けて下さっています。

私たちは、親にいつも抱かれていた乳児の頃のことをまったく覚えていません。
一人で大きくなったように思い上がっている私たちが、「子をもって知る親の恩」と言われるように、わが子によって親の恩を知らされます。

ということは、これほど大きな子どもの恩はないと言えます。

「親の恩を知る」ということは同時に「子の恩を知る」と言うことでもありました。

私は一生かかってもまことの親になれそうもありませんが、それでも「あなたも私も共に仏の子どもなんだね。

同じ親にあえて良かったね」とうなずける日を願って、日々を大切に過ごしたいと思っています。

いつも一緒!!

少し前のことですが、娘が「私たちは仏さまの子どもなんでしょ」と聞くので、「そうだよ。
お父さんも仏さまの子だよ」と言うと、「お父さんも仏さまの子どもなの。
じゃあ一緒だね」と言うのです。

うれしくなって「そうだよ。
それにね、仏さまは、いつでも、どこでも一緒にいて下さるんだよ」と言うと、「じゃあ学校に行ってる時も、寝てる時も?」と聞くので、「そうだよ、いつも一緒!!」と言いました。

すると、「仏さまは大変だねえ。
大忙しだね。
でもよかった。
安心だね」と言って、元気に学校へ行きました。

私も仏さまのご苦労を忘れてはいけないと、子どもの言葉によって気付かせていただいた大切な一日となりました。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/