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子どもに育てられ みんなの法話

提供: Book


子どもに育てられ
本願寺新報2003(平成15)年9月1日号掲載
教学伝道研究センター研究員山本 浩信(やまもと こうしん)
子が産まれて親となる

今年の三月、結婚五年目にして、双子の男の子を授かりました。

そんなご縁で、ある宗門関係の高校で行われた「いのちを学ぶ」という宗教科の特別授業に、妻子と連れ立って参加する機会を得ました。

妻が出産の体験報告をし、その後、二人の我が子は、高校生たちにダッコしてもらいました。
首も据わっていない乳児を前に、高校生たちは皆、こわごわ。
体育会系の、割と体格のいい生徒さんの腕のなかでは、居心地がよいのか、やけにニコニコしていました。

つかの間のふれあいでしたが、高校生と共に「いのち」の尊さを考える機会を得て、私自身、すがすがしい思いで校門を後にすることができました。

出産といいますと、テレビのワイドショーの一幕ですが、二度の流産を経て、かわいい女の子を授かったタレントの西村知美さんが、産まれたばかりの赤ちゃんを抱えてインタビューに答えていました。
報道陣を前に、「鼻からスイカが出てくるような痛みでした」と陣痛の苦しみを告白し、「はじめて赤ちゃんを見て、ガッツ石松さんに似ていると思いました」などと、いつものおとぼけトークを交えながらも、涙ながらに、「主人が私を妻として、この子が私を母として選んでくれたことに、ありがとうと言いたい」と語った言葉がとても印象的でした。

人は縁によって、妻ともなり、母ともなるのです。
私の場合は、妻がいるから夫であるのであり、妻が子どもを産んでくれたから、はじめて父親になることができたのです。

子守唄から母をおもう
また、ある僧侶の方ですが、若い頃に法事の席で、「最近子どもが産まれて、親の恩がわかりました」と言ったところ、「それぐらいで親の恩がわかってたまりますか」と逆に叱られたことがあると、笑って話をしておられました。

「子を持ってはじめて知る親の恩」と言いますが、ただ親になっただけで知ることができるようなご恩ではありません。
まだ始まったばかりですが、私は「子育て」を通して、いろいろな気付きをいただきます。
いえ、むしろ、子どもに育てられていると言うべきかもしれません。

真夜中に子どもがぐずって、どうしようもないとき、ふと子守唄をうたうことを思い立ちました。
隣の子が起きない程度の小さな声で、「ねーんねーん、ころーりよ、おこーろーりよー。
坊やは、よい子だ、ねんねーしなー」。
その続きがわかりませんので「むー、むー」とただメロディーをたどりながら、あとは同じことの繰り返しです。
なかなか泣きやみませんので、少々腹も立ってきます。
それでも、子どものお腹を、ポーン、ポンとやさしくたたきながら、拍子をとってうたっているうちに、いつしか母の声がダブってきました。

「あー、自分もこうやってあやしてもらっていたんだ。
そしていま、遠く離れたふるさとの母から伝え聞いたやさしいうた声が、私の口を通していま出ている」―そんな思いで胸がいっぱいになりました。
この思いが伝わったのか、いつしか我が子は子守唄を聞きつつ寝入っていました。

比較超えたひろい世界
子育てをしているつもりの私が、逆に母のこころに出遇うというお育てを被っていたのでした。

すやすやと眠っている二人の寝顔を見ていると、ふと「わかっていても、何かと比較してしまうんだろうなぁ」と思いました。

兄弟ですので、似ていることは似ていますが、二卵性ですので、体格も表情も泣き声も、微妙に違います。
これから比べられることも多いでしょう。

しかし、阿弥陀さまは、わけへだてない平等の慈しみのこころで、いつも、私たちを見守って下さっています。
そのこころにふれるとき、私たちは、比較を超えた、ひろい、ひろい世界に立つことができるのではないでしょうか。

こころの耳を澄ませば、ほら、阿弥陀さまは母の子守唄のように、お念仏というお喚(よ)び声で、いつも私たちに慈しみのこころを届けて下さっています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/