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子どもと一緒に みんなの法話

提供: Book


子どもと一緒に
本願寺新報2008(平成20)年6月20日号掲載
岐阜・光圓寺住職 日野 安晃(ひの あんこう)
「勉強しろ」と「寝ろ」

年間3万人もの方が自殺をされていると聞きました。
現代人の孤独を思わずにはいられません。
死を選ぶまで思い詰められた方の気持ちを、軽々しく推し量ることなどしてはならないことでしょう。
けれども、やはり考えてみてほしいと思います。
親をはじめ兄弟や友人たちが、その死をどれほど悼むかということを...。

私自身も子をもつ身として、親は子どものことを実にさまざまに心配し、願わずにはいられないものだと気づかされました。
親のありがたさは、親を縁としていのちを授けられたということだけにとどまらず、常に私のことを気にかけてくれている存在なのだということです。

子どもの幸せを願い、将来を思わない親はいない。
けれども、その願いや思いは、案外、いい加減なものであったり、上手く伝わっていなかったりします。

ある時、「これだけは子に伝えたいということがあるだろうか?」と考えてみました。
そして、これだと当たりをつけてから子どもたちに「お父さんはお前たちにいつもどんなことを言う?」と尋ねてみました。

すると「勉強しろ」と「早く寝ろ」だというのです。
「ホントに? 違うだろ!」と思いましたが、言われた本人が言うのですから、そうなのでしょう。

そんな言葉は、「いい学校に行ったからってそれだけで本当に幸せになれるのか。
どうせ親の見栄(みえ)だろ。
自分だけ好きなだけテレビを見て勝手だな」というような、親のエゴとしか感じられていないと思います。

その時は、大事なことが案外言葉にもされず伝わってもいないと、痛感させられました。

たった1つの願いこそ次男が中学2年生の時のこと、屋根から落ちてかかとを砕き、手術することになりました。
全身麻酔が必要となり、万に一つの確率ながらも、いのちの心配をしなければなりませんでした。
無事、麻酔からさめてくれるのだろうか、たとえ手術が失敗するようなことがあっても、いのちだけは助かってくれ、と願わずにはいられませんでした。

「いのちが助かってほしい!」

これが、親が子どもに望む一番シンプルでストレートな願いではないでしょうか。
勉強のできるできない、運動の得意不得意、健康であるかないか、お金のあるなし...、これらは皆その後の問題なのです。
この順序を間違えると、無用に子どもを追い詰めていくことになりかねません。

けれども、いのちが助かる、とはどういうことでしょうか。

死なない、ということでしょうか? そうだとすると、最終的に助かるいのちはひとつもありません。
第一、子どもに毎日、「死なないで」と呼びかけるというのもおかしな話です。

学徳兼備と称(たた)えられた原口針水和上(しんすいわじょう)に「われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親のよび声」という有名な歌があります。

「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことは"どんな困難の中にあっても、精いっぱいの人生を歩んでおくれ。
それは、お前が仏となるための大切な人生なのだよ"と、私たちのいのちの本当の親さまが、他の一切の余計なことを選び捨てた上でよび続けていてくださったのだなぁ、とよろこばれたのです。

何のために生まれてきたのか、そのことを、子どもと共に真実の親さまに聞かせていただくのです。
ここをはずしてしまうと、どんなもっともらしいことを言っていても、親のエゴ、自分の都合を押し付けることにしかなりません。

 「一緒にお念仏申しておくれ」

初めは、なかなか勇気が要ります。

「お参りでもないのになんで?」と聞かれるかもしれません。

「私とお前のいのちの親さまのたった1つの願いだからだよ。
仏さまはいつも私たちと一緒にいたいんだよ」

「???」

おそらく子どもの頭に3つくらい?マークが浮かぶことでしょう。
けれども、いつかかならず、「そういえば親父(おやじ)はよくお念仏を称(とな)えていたけれども、これって、とっても大事なことだったのだな」と気づいてもらえる日がくるに違いありません。
それでいいのだと思います。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/