大人も「仏の子」 みんなの法話
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大人も「仏の子」
本願寺新報2003(平成15)年4月20日号掲載
教学伝道研究センター研究員 田中 真英(たなか しんえい)
外見からは想いもよらず
先日、電車に乗っていたときのことです。
「どうぞ」。
今風の服装に茶髪がかった男の子たち二人が、中年半ばの夫婦に席を譲っている姿を見かけました。
首には阪神タイガースのメガホンを二個ぶら下げ、オープン戦を観戦した帰りだったのでしょうか。
外見からは想(おも)いもよらない行動に驚きをかくせませんでした。
「阪神が勝ったから機嫌がよかったのかなぁ」などといらぬ勘ぐりをしながら、それでもこの情味希薄のご時世に心温まる情景を目の当たりにした周囲では、言い知れぬ和やかな雰囲気が漂っていたように感じられました。
次の駅から、今度はかなりお酒を飲んでいるように見える女の子のグループが乗り込んで来ました。
先ほど席を譲ってもらった夫婦の前に立ち、酔い覚めぬもつれる舌で必死に話を交わす場景に、今までの和やかな気分を一蹴してしまうような寂しい思いを感じてしまいました。
これまた、外見からは想いもよらない光景に、ただただあ然とするばかりでした。
現代の若者たちの意外な面を一度に味わう出来事でした。
しかし今、あらためてその出来事を思い返してみると、なんとも「わたしの眼鏡」で物事を見ている私が居るではありませんか。
外見から少年たちを「どういう風の吹きまわし?」と判断したり、若い女性のグループを「淑(しと)やかそうに見えて大胆な...」などと勝手な自分の眼鏡で物事を見てしまっているのです。
傲慢な眼鏡でみているだけ
人生の上でも、ともすればこの一瞬の出来事と同じく、「わたしの眼鏡」ですべてものごとを判断してはいないでしょうか。
実は、この「わたしの眼鏡」に気付かせていただく出来事が私の身辺で起こったのです。
私のお寺では、日曜学校を春から秋にかけて開いていますが、毎回必ず子どもたちと誓う言葉が「ほとけの子のちかい」です。
<pclass="cap2">一、ほとけの子は すなおにみ教えをききます
一、ほとけの子は かならず約束をまもります
一、ほとけの子は いつも本当のことをいいます
一、ほとけの子は にこにこ仕事をいたします
一、ほとけの子は やさしい心を忘れません
子どもたちは、毎回大きな大きな声で読んでくれています。
本当に嬉しいことです。
私は、この「ちかい」が一つでも実行できるような素直な子どもに育ってほしい、そんな願いを伝えたいと思ってきました。
でも、そのような願いもまた、私の傲慢な眼鏡で見ているに過ぎないことに気付かされるのでした。
煩悩にまなこさえられて
「どうして僕は仏さまの子なの?」という子どもからの問いかけがきっかけでした。
その問いの答えを探しているうちに「自分もまた仏さまの子なんだ」ということに気付かされたのです。
「ほとけの子、ほとけの子」と、ずっと私は子どもたちに向けて言い続けてきましたが、「ほとけの子」とは、実は子どもだけでなく、私たち大人も含まれていたのです。
この私への誓いであったのです。
気が付くとどれをとっても守れていない私の姿が現れてきます。
<pclass="cap2">煩悩にまなこさへられて
摂取(せっしゅ)の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(註釈版聖典595頁)
親鸞聖人は「ご和讃」において、仏さまの大いなる慈悲の光明がいつも私を照らしてくださっていると鑚仰(さんごう)なさっておられます。
私は、さまざまな無明(むみょう)煩悩にさえぎられて、この命が尽きるまで、仏さまの摂取の光明を見ることはできません。
「わたしの眼鏡」でしかものごとを見、考えることのできない私ですが、仏さまはそんな私を常に照らしてくださり、「仏さまの子」とよび続けておられるのです。
そのことに気付かされるご縁でありました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |