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声が聞こえる みんなの法話

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声が聞こえる
本願寺新報2001(平成13)年9月1日号掲載
清基 秀紀(きよもと ひでのり)(京都女子大学講師)
お葬式

え.秋元裕美子
悲しくないお葬式はありません。
しかし、数年前に経験したお葬式は、ことさら涙をさそうものでした。
そのお葬式は、わずか二ヵ月半で亡くなった赤ちゃんのお葬式だったのです。

改築のため取り壊される葬儀会館の、その一番最後として行われたお葬式は、工事の準備にあわただしいなかで、そこだけ時間が止まったように静寂が支配していました。
その中で、小さな棺おけに入れられた赤ちゃんの顔を、しゃがんでじっと見つめるお母さんの後ろ姿は、今でも私の脳裏に焼き付いています。

その赤ちゃんは、生まれた時から体の異常があり、半年の命もないことが、お医者さまから宣告されていました。
しかし、大切な命として胎内に宿した月日、そして亡くなるまで共に過ごした時間が、お母さんに対しては、なかなか覚悟を与えてはくれなかったようです。
憔悴(しょうすい)しきった後ろ姿に、かける言葉はなかなか見つかりませんでした。

家族として一度も一緒に暮らすことなく病院で亡くなった赤ちゃん。
だからこそ、せめてきちんとお葬式をして送り出したい、そんな遺族の気持ちがよくわかりました。

葬儀は、身近な親戚(せき)だけに知らされ、かけつけた誰もが子どもを失ったつらさを、自分の悲しみと感じているようでした。

赤ちゃんへの手紙
内輪だけの葬儀に、弔電や弔辞のような儀式めいたものはなく、赤ちゃんを送る言葉として、お母さんが書いた手紙が読まれました。
とても自分では読めそうになかったお母さんに代わり、お父さんによってその手紙は読まれました。
死にゆくわが子を見つめながら書かれた三通の手紙は涙をさそいました。
しかし、その手紙の中でお母さんはこんな言葉を赤ちゃんに贈ったのです。

「あなたは私たちの子どもとして生まれてきました。
しかし、毎日泣くばかりで微笑(ほほえ)み一つ返してくれることはありませんでした。
あなたは私たちに悲しみと苦しみしか与えてくれなかったかのようです。

しかし、命が長くないことも知らないあなたは、手足をバタバタさせて、毎日懸命に生きようとしていました。
私たちはその姿に、やがて感動を覚えるようになったのです。
私は何十年と生きてきて、はたしてあれほど懸命に生きようとしたことがあっただろうか、与えられたこの命を本当に大事に生きてきただろうかと、あなたの姿に反省させられたのです。

あなたは私たちに喜びは与えてくれなかったかもしれません。
しかし、私はあなたから、もっと大切なことを教えてもらったのです。
あなたが私たちの子として生まれたことを感謝します。
○○ちゃん、生まれてきてくれて、本当にありがとう」

火葬が終わり、小さな小さなお骨をひろい、火葬場からの帰途についたとき、「ありがとうございました。
ようやく心が落ち着きました」と、お母さんが静かな口調で礼を述べました。

葬儀は儀式にすぎないかも知れません。
しかし、誰もが悲しみを共有し、とても大切なことを学んだ一日は、私にとっても忘れられない大切な時間でした。


仏の声を聞く
私たちは人の死に出会ったとき、何を感じ、何を学ぶのでしょうか。

話すことの出来ない赤ちゃんは、私たちに教えを説くことはありません。
しかしその死から、命ということ、生きるということをお母さんは学びました。
限られた命を精いっぱい生きる姿を見て、私たちもまた本当は、限られた命を生きているのだということに気付くこともあるでしょう。
大切なことを教えてくれた赤ちゃんを、還相(げんそう)の菩薩であると感じる人もいることでしょう。
同じ経験をしても、人によって学ぶことは違います。
何を学ぶかは、私たちの問題なのです。

私たちが仏さまに手を合わせる時、仏さまは何も語られません。
しかし、お浄土からの呼び声は確実に私たちに届いています。
それを聞くのは、その声を心で受けとめるのは、私たちなのです。

阿弥陀如来は、すべての人を浄土へ救いたいという大悲の心で、つねに私たちに呼びかけておられます。
その本願は、この私のためであったのだと喜ばれたのが親鸞聖人です。
すべての人のための本願が、実は私たち一人ひとりのための本願なのです。
そのことが心から喜べるのは、私たちが阿弥陀如来の本願を心から信じ、その声を素直に心に受けとめる時なのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/