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喜びに生きる病床 みんなの法話

提供: Book


喜びに生きる病床
本願寺新報2002(平成14)年7月1日号掲載
山口・宗玄寺住職 嘉屋 英嗣(かや えいし)
その身にならないと

母方の祖母が亡くなって、もう八年がたちます。
最近この祖母の口癖だった言葉が思い出されてなりません。
祖母は、九十年の生涯でしたが、晩年は持病のため、ベッドとのつきあいが長かったのです。
この祖母を看病したのは家族ですが、特に伴侶となって七十年を共にした祖父が付きっきりで、いつも二人でひとりといった具合で寄り添っていました。
この祖父は今年で百二歳。
今も元気に私たちのことを心配しながら、見守っていてくれます。
祖父がいてくれるので、みんなが集まって行きやすい。
不思議なことです。

祖母は晩年「本当は、私があの人のことを見てあげるつもりだったの。
それなのに、みんなしてもらう」と愚痴ともつかないことを言い、「でもな、この人だからみんなまかせることが出来る」と嬉しそうに笑みを浮かべていました。
こんな時、必ず出てくる言葉が「その身になってみにゃわからんことよ」でした。

金子みすゞさんの詩に「さびしいとき」というのがあります。

<pclass="cap2">わたしがさびしいときに、
よその人は知らないの。

わたしがさびしいときに、
お友だちは笑うの。

わたしがさびしいときに、
おかあさんはやさしいの。

わたしがさびしいときに、
仏さまはさびしいの。

<pclass="cap2">(JULA出版局)

いま、祖母の言葉に仏さまの慈愛を感じます。
私たちは、つい自分を主にして相手を見るので、相手の本当の思いに至ることが出来ません。
そのことを「なってみないとなかなか感じ取ることができない」と教えてくれます。
この心が「仏さまはさびしいの」という言葉に、仏さまの慈悲のおはたらき、ぬくもりを感じさせてくれるのです。

私に寄り添って下さる方は、本当の私の姿を知り抜いたお方なのです。
だからじっとしてはいられないはたらきが、私の〝いのち〟すべてを摂(おさ)めとって下さっているのです。

欲望のおもむくままに
また、祖母は、大好きだったケーキを買っていくと本当に嬉しそうで、その姿は幼子のようでした。
ケーキを口に含んで「ムシャ、ムシャ」と口元が動きます。
その次に「こがぁにうまいケーキは、はじめていただく」と。

この言葉も私には素直になかなか聞こえてきませんでした。
というのも、うまいといえば、もっと高価なケーキだって今までに何度も口にしているじゃないかと、品の善し悪ししか見えていない私には、この心をいただくのに時間がかかりました。
「こがぁにうまいケーキは、はじめていただく」は、何度買っていっても、祖母の口から絶えることはありませんでした。

「病床に伏す日々の私だが、今日もこうして私のことを心配して下さる方がいる。
その上に、私に会いに、わざわざケーキまで買ってきてくれるあなたがいる。
見捨てられても何も言えないのに、こうして案じて下さる方の中にあるとき、世界中で私が一番幸せものです」と言っていたのでしょう。
だから、何にもまして、私のことを思って買ってきて下さったものは、今日のいのちを賜って、今日いただく最高の宝物と教えてくれていたのでした。

物がたくさんあって物の大事さが見えなくなったと言われて久しいですが、いただいた〝いのち〟に感動がなくなっているのは、他人ではなく、私自身ではないでしょうか。
そして、目の前の楽しみのみに明け暮れて、大切なことが見えなくなって、欲望のおもむくままに振り回されていることにも気付かずにいるのです。

当たり前でないいのち
源信和尚は、快楽の世界の空(むな)しさを次のように教えられました。

天上界は、快楽が極まりないとしても、寿命が尽きるころになると五衰の相が現れる。
一、頭の飾りがすぼみ、二、衣が塵(ちり)や垢(あか)で汚れ、三、よき香りが失われ、四、笑いや、楽しい心が失われ、五、居るところも少しも楽しくなくなる、とあります。
この相が現れると、親しき大人たちは、あたかも刈った草でも棄てるように、老いた天人を棄てて遠ざかり、離れていくとあります。
快楽の世界の命終わるときの苦しみは、何と悲しいことでしょう。
この相は、まさしく今の私たちの生活そのものといただきます。

インターネットなどで話題になった「世界がもし100人の村だったら」の出だしに、「今朝、目が覚めたとき、あなたは今日という日にわくわくしましたか? 今夜、眠るとき、あなたは今日という日にとっくりと満足できそうですか? 今いるところが、こよなく大切だと思いますか?」と、あります。

今日という一日、今日のいのち、とっても不思議な出逢いであり、あることが決して当たり前でない。
とっても驚くほど喜ぶことなのに、それが失われ、当たり前と有頂天になっているところには、感動は失われ、愚痴・驕慢(きょうまん)の世界におぼれていくしかありません。

快楽への誘惑を断ち煩悩を断じてさとることは至難のわざです。
しかし、お念仏を歓ぶ心を賜った者は、快楽生活の中にもお浄土への導きを喜ばせていただけることを、祖母の姿に見たことでした。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/