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善人になるより悪人と気づくのは難しい

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人は誰でも「あなたはよい人ですね」と言われるとうれしくなるでしょう。反対に「あなたはわるい人です」と言われれば腹が立つでしょう。人は、よく言われたいという習性があるともいえましょう。

 しかし、少し、考えてみると人が他人に向かってよい人と言うとき、ひょっとすると自分に都合のよい人、利用できる人、役に立つ人が善い人であり、そうでない人を悪人にしてしまうということがないでしょうか。

 このように人間は自分を中心に、言いかえれば、本能や欲望を中心にして他のねうちを決めようとする生きものなのでしょうか。

 親鸞聖人は、いっけん善にみえる行動でも欲望や煩悩、つまり自分中心(我執)から生まれた行動は「雑毒の善」とわれています。

 あまり適切ではないかもしれませんが、ある人が、社会事業に一生懸命になり、人びとのために献身的に働いているかにみえました。そのこと自体はよいことと言わねばなりませんが、じつは、それは選挙に勝つための手段であった、というのです。まさに、いっけん善にみえるようですが、じつは自分の名誉欲のためであったとしたら、毒の入っている善ということになってしまいます。

 その意味では人間の行動は他と比べて、ねうちをつけ、自分の立場を正当化しようとするところがあると言わねばなりません。

 話をすすめますが、宗教、仏教の世界でも自分の力で修行して自分の修行で、完全な仏に成れると思い込んでいる人を「善人」といいます。それに対して、自分の力、煩悩の混ざっている力では、完全な仏に成ることができないと気づく人が「悪人」なのであります。

 人は誰でも、自分を認めてもらいたいし、自分の力を信じたいといいますが、しかし、先ほどのように、毒の混ざった善行では、仏の「さとり」に至るのにはまにあわないということです。

 ただ、人間は、自分の暗さが見えないのです。暗い中だけに呼吸をして生きているものは、ここが暗いとは言わないでしょう。なぜなら暗さがわからないからです。

 それと同じように、煩悩にまみれ、欲望と本能におぼれているものにはその暗さが見えないのです。光に照らされて暗さが知らされるのです。すなわち、み仏の智慧に照らされて、わが身のあり方が見えてくるのであります。

 およそ、人間が宗教的になるとは、どうなることでしょうか。それは、いままで見えなかったものが見えてくる、いままで感じられなかったことが深く感じられてくる、そしていままで気づかなかったことに気づかされてくることになるのでありました。



本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。