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命のつながり みんなの法話

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命のつながり
本願寺新報2007(平成19)年2月20日号掲載
秋田・慧日寺住職 筑波 義厚(つくば ぎこう)
時代の流れ 人間の変化

この十年の間に二人の息子に恵まれて親になりましたが、子どもあっての親ということをすっかり忘れて、子どもを叱(しか)りつける自分の姿に時々ハッとします。
親と子は同い年なんだと教わって、なるほどとうなずいた感動もどこへやら、子どもに接する時の上から見下ろした言動に、気づかないことが多い私です。
親であり続けることのしんどさに、我が身の至らなさを感じない日はありませんが、同時にこの上ない喜びも味わっています。

昨年、私の住む秋田県で、母と子の悲しい事件が二つ起きました。
あの親子だけに起きた特異な事件と思いたいのですが、そうとは言い切れない時代の流れと、人間の変化を強く感じます。
母と子の絆(きずな)は、いったいどうなってしまうのでしょうか。

親が我が子を自分の所有物と見るとき、命のつながりが物のつながりに変わってしまいます。
物のつながりは、役に立つか立たないかでつながったり切れたりします。
命を作り出すことは何人(なんびと)にもできません。
命のつながりとは、真実に出遇(あ)った人が、「本物の命になれ」との真実の持つ願いにうながされてはじめて触れることの出来る、人間を超えた大いなるものの命のいとなみのことです。

本物の命になるとは、真実によって、私が迷いのまっただ中にいることに気づかされると同時に、私の歩みべき方向が明らかになるということです。
お釈迦さまは、それを仏になる道として伝えてくださいました。

子が母親を思うように
母と子の信頼関係を象徴するものに、授乳があります。
大人が飲んだらお世辞にもおいしいとは言えない母乳ですが、赤ちゃんにとってはこれ以上ない母からの贈り物です。
ミルクも同様ですが、もし赤ちゃんが、毒が入っていないだろうかなどと疑いを抱(いだ)いたら、安心して母乳を飲むことなどできません。

母乳には、元気に育ってほしいという母親の願いが凝縮されています。
母乳は、母親の血液そのものといわれます。
母親は、まさに命がけで自らの願いを子に伝えるのです。
不思議なもので、母親が熱いものを食べようが、冷たいものを飲もうが、辛いものを食べようが、苦いものを飲もうが、母乳が赤ちゃんの口に入るときには、最も飲みやすい状態で出てきます。
しかも、赤ちゃんが病気にならないための抗体や、成長に必要な栄養分が欠け目なく備わっているそうです。

親鸞さまは「子の母をおもふがごとくにて衆生仏を憶(おく)すれば」(註釈版聖典577ページ)と和讚にうたわれました。
人間においては、子が母を慕うことは常であっても、母の親心を知るのは容易なことではありません。
親になってはじめて自分の親の気持ちを知り、親を失って親の恩の深さを身にしみて感じるものかもしれません。
しかし阿弥陀さまは、阿弥陀の親心を知ることなく命を終わってしまったらむなしい人生だぞ、人間として生をうけた今が仏になる道を歩むラストチャンスだぞと、その願いそのままに「南無阿弥陀仏」と名告(なの)られ、仏さまとなって止むことなく私によびかけておいでです。

仏のよび声身に受けて
南無阿弥陀仏のお名告りは、私を仏にしてくださる阿弥陀さまの母乳そのものです。
阿弥陀さまは、ご自身の壮絶なご苦労をもいとうことなく、一番なじみやすいようにと、称(とな)えられる仏さまとなられました。
しかも母乳がほしいと泣き叫ぶより先に、すでに私に与えられているのですから、赤ちゃんが無心で母乳を飲むように、お名告りをそのままいただくよりありません。

赤ちゃんが「お母さん」と呼び始めるのは、まず母親からの「私が母だよ」という呼びかけがあるからです。
この私も、「まかせよ、必ず仏にするぞ。
我が名を称えよ」との願いが込められた、阿弥陀さまからの南無阿弥陀仏のよびかけによって、お念仏申す身に仕上げられるのです。

子が己をむなしくして親の心をしることはたやすいことではありませんが、親心をはねつけるかたくなな子の心もすべてお見通しで、この身にしみ込んできて母と子の絆を取り持ってくださる母乳のような南無阿弥陀仏に、ぬくもりとたのもしさを感じています。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/