同じ味を共に喜ぶ みんなの法話
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同じ味を共に喜ぶ
本願寺新報2008(平成20)年9月20日号掲載
山口・専修寺住職 森 芳麿(もり よしまろ)
どんな気持ちでお墓に
9月23日は秋分の日、秋のお彼岸の中日です。
仏教行事としてのお彼岸は、聖徳太子の時代にすでに行われていたようですが、江戸時代になって一般的になったそうです。
日本古来の先祖崇拝と結びついて今のような形になった日本独特の行事です。
この日、各地で多くの方々がお墓参りをされます。
それぞれ、どんな気持ちでお参りされているのでしょうか?
「ご先祖さま、いつも守ってくれてありがとう。
これからもお守りください」でしょうか?
「私の願いをかなえてください」でしょうか?
もしかしたらヒットした歌の影響で、「本当はこの墓の中にはいないんだろうけどな」と思いながら手を合わせている方もあるかもしれません。
まさか「化けて出て家に災いをするなよ! 安らかにおとなしく眠っていてくれ!」という方は......いやいや、案外少なくないのかもしれません。
</p>『彼岸』という言葉の本来の意味は「おさとりの世界」ということです。
煩悩の炎が吹き消された世界、完全なる心の平安を得て迷いを離れた世界で、私たちの世界(此岸(しがん))と対比される世界です。
私に届けられたお念仏
『仏説阿弥陀経』には、十万億の仏国土を超えた西の彼方にあるおさとりの世界を極楽浄土といい、そこにまします仏さまが阿弥陀仏であると説かれています。
西の彼方にある、ということで古来より人々は西に沈む太陽に思いを重ね、お浄土をいのちの行き先として、そしてかえるべきところとして思いを馳せ、先往(さきゆ)かれた方々を偲ばれたのでしょう。
しかし、お浄土は単に死んだらいく世界ではありません。
足を棒のようにして探し回って見つかる世界でもありません。
迷いの中にありながら迷いを迷いと知らず、その迷いから抜け出したいとも思わない、そんな私の今の『立ち位置』が、「さとりの世界」が示されることによって明らかになります。
そして必ずこの浄土に迎え取って、この阿弥陀仏と同じさとりの仏に仕上げて救うという、そのはたらきとしての世界なのです。
地理的に、あるいは物理的にどこかに在るという世界でありません。
そのお浄土から私の上に生き生きと届いているのがお名号「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
届いたままが私を救うお慈悲のはたらきです。
私が称えて救われるのではありません。
今、次のいのちはお浄土の仏と生まれるその証拠が私の息の上に「南無阿弥陀仏」と現われているのです。
そのお慈悲を私たちのご先祖先輩方はただ「ようこそ、ようこそ」といただいて喜びの中に生き抜かれました。
浄土真宗のお墓参りは願い事や鎮魂のためではなく、先往かれた方々が守り伝えてくださったこのお念仏の救いの法を、墓前に手を合わせることを通じてともに味わう尊い仏縁なのです。
僕は理系に進学します
先日、学生時代の先輩のあるご住職からこんな話を聞かせてもらいました。
その方がまだ高校生の頃、あるご講師がお寺にお説教に見えられたそうです。
そこでご挨拶に行かれたところ、そのご講師は「あなたは将来の進路はどうされますか?」と聞かれたそうです。
「はい、僕は理系に進もうと思います」
「そうですか、素晴らしいですね。
頑張りなさい」
「はい、ありがとうございます。
先生、どうぞお饅頭(まんじゅう)、召し上がってください」と、お茶うけに出してあったお饅頭をすすめたそうです。
「いやいや、あなたこそどうぞひとつおあがりなさい」
「先生、このお饅頭はここの名物で、美味(おい)しいですよ」とさらにおすすめすると、「そうですか、それではひとつ...」と口に運ばれ、味のことはひと言もおっしゃらずに、「同じお饅頭を食べて、同じように美味しいと言えれば素晴らしいですね」とおっしゃったのだそうです。
「あの先生のひと言で私は仏教の勉強をしようと決めたんだよ」と、そのご住職はおっしゃいました。
私たちのご先祖先輩が味わわれた南無阿弥陀仏のお慈悲を同じように味わい、同じように有り難いね、よかったねと共に喜べたら素晴らしいですね。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |