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原爆雲の下の別れに みんなの法話

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原爆雲の下の別れに
本願寺新報2005(平成17)年8月20日号掲載
広島・光隆寺住職  光寺 重信(こうじ じゅうしん)
「戦争」と「愛別離苦」

「愛別離苦(あいべつりく)」は、お釈迦さまが人生の苦しみの姿を説かれたものの一つで、「愛する人と生別・死別する苦しみ」のことです。
特に〝死別〟は、後に引き返すことのできない決定的な別れとして、人生に影を落とします。

これまで人々はどんなにか、愛する家族との死別、知人との死別に涙してきたことでしょうか。
それでもそれが病死であったり、老死であったりした場合、別れの悲嘆の中にも、ある程度は人生のやむを得ぬ〝自然死〟として、納得できるのではないかと思います。

しかし私は、もう一つの「愛別離苦」について思います。
それは〝戦争〟による死別です。
戦争は自然に発生するものではなく、人間が始めます。
それゆえ戦争による死は〝人為的〟に引き裂かれた死と言えます。

六十年前の八月、日本は敗戦を迎えました。
それゆえか毎年八月は戦争の記憶を強く呼び起こします。
戦争は日本人はもとより、他国の人々など未曾有(みぞう)の死者を出して終わりました。
戦場で妻子を想いながらの死、空爆で家族と別れの言葉もなく迎えた死など、引き裂かれた「愛別離苦」の中になげだされた人々の死を思うのです。

広島・長崎の原爆は...
わけても広島・長崎の原爆は、一発の爆弾で、一瞬のうちに、人類史上最多の死者を生じさせました。
そして六十年を迎える今も、人々の身心に深い傷と悲しみを残しているのです。

次に紹介させていただく文章(昭和六十二年・中国新聞所載)をお読み下さい。

「...四十二年前の夏、父母が仕事に出掛けた後、学徒報国隊の弟は、何の予感があったのか『休む』と言った。
が私の一喝で、家屋の解体作業の現場である広島市内の八丁堀へ走った。
原爆さく裂の時間に合わせたように現場へ着いた計算になる。

その日から今日まで、弟は帰ってこない。
今でも同じだが特にその年の夏は、雨戸を開け放して寝た。
傷ついた体でも家に入れることを念じて。

親と『行ってきます』のあいさつも交わさず出たきりの弟。

一喝した私の自責もさることながら、九十歳で養護老人ホームにいる母は『あれは帰ったか』と訪ねる度に私に問う。
完全に記憶は白紙の母だが、弟のことだけは頭にあるのだ。
諸行無常とはいえ、あまりに無情だ。
また8・6がやってくる。
弟は帰らない」(広島市・朱磧・61歳・高校講師)

朱さんは在日韓国人です。
先年亡くなられました。
かつて韓国・北朝鮮の人々は、日本に併合されて国を失い、日本の戦争によって原爆に遭われ、この文章のように、どうにもならない悲しみを懐(いだ)いて生きてこられたのです。
このことの重さに言葉を失います。

私の姉の一人も、原爆当時十三歳の女学生でした。
空爆の延焼を防ぐ防火帯を作るための、家屋の解体作業へ行って被爆し、帰ってきませんでした。

前住職であった父はその当時五十二歳。
行方不明の娘を捜して、焼け跡や被災者収容所を何日も歩きましたが見つかりませんでした。
父は原爆から七年後に亡くなりましたが、娘を想い出してか、晩年の父が時折見せた、放心したようでさみしげな姿を忘れることはできません。

阿弥陀仏の他力の慈悲
戦争は無数の無惨な「愛別離苦」をもたらします。
空爆や戦場の死。
南方の島々の遺骨も帰らない兵士たちの死。
この無惨を包み、完全な安らぎの身にさせてくださる「阿弥陀さま」の「お慈悲」のことを想います。
引き裂かれたお互いを、必ず会える身にさせてくださる、まちがいのない「他力」のことを想うのです。

「如来の作願(さがん)をたづぬれば 苦悩の有情(うじょう)をすてずして 回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて 大悲心をば成就(じょうじゅ)せり」(註釈版聖典606ページ)といただきます。

過去の世界の歴史の流れの中では、先の戦争もやむを得ない面もあったかもしれませんが、その多くが愚かであったと気付く時、私たちの心をして、国をして非戦の思いを強くするべきではないでしょうか。
ましてや仏法からは聖戦や侵略の考えは出てこないのです。

夏の暑い日差しの中に今日もお念仏させていただくばかりです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/