努力や思索の延長から仏に遇う世界は生まれない
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「私、さっきおばあちゃんに席を譲ってあげたの。朝からいいことしたから、今日は何かいいことあるかなあ?」「きっとあるよ。私もこの前、車椅子の人がバスに乗るのを手伝ったんだけど、その日に彼からプレゼントをもらったもの」。満員の地下鉄車内で、耳に入ってきた女子高校生の会話である。周囲の人に気軽に手を差し伸べること自体は何の問題もないが、その代償として自分の身に起こる「いいこと」を期待する姿勢は、どうにもひっかかる。私たちの考える「いいこと」とは、自分にとって都合の良いことにほかならない。彼女たちは、自分が満足する結果を得たいために、困っている人や苦しんでいる人を利用しているといえないだろうか。もし「いいこと」がなければ、帰りの電車でお年寄りや障害者を押しのけて座っても、おそらく何の痛みも感じないだろう。
日本の自殺者数は年間三万人を上回っているという。自殺のニュースのたびに繰り返される、「今はどんなに辛くても生きていればいつかきっといいことがある」という声にむなしさを感じるのは私だけではあるまい。何の保証もない無責任なことをよくいうものである。本当に問題なのは、「私」というかけがえのない命が、今ここにあることを喜べる世界に出会えない人がたくさんいることのはずなのに…。
私は目が見えない。晴眼者を基準に作られた社会の中で、視覚障害者が生きるための努力や苦労は並大抵のものではない。毎日往復二時間の通勤にはいつも神経をすり減らしている。人と対話する時も、表情や動作が見えないので、声や雰囲気だけで相手を理解しなければならず、一瞬たりとも緊張の糸を緩めることができない。日夜、細心の注意を払っていても、道路で幼児に接触して転倒させたり、会話に齟齬をきたして相手に不愉快な思いをさせてしまったりする。せつなく辛く悲しいことを数え上げればきりがない。
もし私の努力や苦労が「いいこと」を期待してのものだったなら、思うようにならない結果に苛立ち、人生を投げ出していただろう。自分の真実の姿を認められずに死を選んでいたかもしれない。
しかし仏法を聴かせていただくご縁の中で、わが身が今ここに生きているという事実だけが思いを超えた確かなものであり、それはたとえどんな姿であっても、おさめとって見捨てないと誓われた如来によって照らし出された、かけがえのないいのちであることに気づかされたのである。如来との出遇いは本当の自分との出遇いであった。それまで嫌っていた自分の姿を、如来から賜った尊いご縁としていただけるようになった。そして今ここで努力できること自体を喜べる世界に出会った時、思い通りの答えを出すことが生きることの意味だと考えていた世界は遠いものになったのである。
自分の思いを依り処にして生きる限り、いくら聞法しても自分の都合のよいことしか喜べない。だが摂取不捨の誓願をたてられた如来が依り処になったならば、何一つ思い通りにならない世界の中にも安心して立つことができる。悲しいことも苦しいことも、嫌なことも、ご縁として確実に受けとめたうえで、精一杯生き切ることのできる力は如来から賜るほかにないのである。
田口 弘
1961年生まれ。東京都在住。
東京教区慈願寺。
東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。